あのとき
20年前のあのとき。
わたしの家は倒壊し、上海からの留学生・衛紅さんは下宿先で崩れ落ちた大黒柱の下で息絶えていた。
電車も電話も通じずに、四日目にやっとたどり着いた事務所でこの悲報を耳にした。上海から駆けつけられた両親や上司の慟哭のなか、おわかれのくるまは過ぎ去っていった。
それから三月ほど経ったころ、上海からの専門家数名を案内して神戸の街を視察することになった。
阪神間の電車はまだすべて不通で、わたしたちは大阪の港から乗船して神戸へ向かうことになった。六甲の山々は緑に映え萌えたっていたが、ところどころに切り裂かれたあとが痛々しく残っていた。
JR三宮駅前は、そごう百貨店の解体がはじまっていて粉塵が舞い散り、マスクをしていても息苦しかった。
三宮商店街から、ダイエー三宮店の倒壊現場を過ぎ、元町から須磨まではJRの車窓から崩れ落ちた神戸を見つめていた。須磨からは長田まで歩いて戻った。道すがら、その破壊のすさまじさに声もなく、シャッターを切るごとに頭(こうべ)を垂れ、手を合わせた。
長田の商店街で開いていた喫茶店で腰を下ろした一行は、開口一番、上海でこの規模の地震がおこったら半数以上の建物が崩壊、死者は数えきれない大惨事となるだろう、幸いこれまで大きな地震はなかったが、沿海には太平洋プレートが走っており、公表すると問題になるが上海市周辺にも活断層はいくつかある、高速道路の支柱は日本よりはるかに細く、やわらかい地盤に高層住宅の建設がはじまっている、などなど、上海の現状への不安が口をついて出た。
わたしも、あのとき、あの日、そしていま大阪の府営木造住宅での仮住まいから、どうしてわが家を再建するか悩んでいると語りはじめた。
はなしは、自然と衛紅さんのことに移っていった。
92年の「天皇訪中」のあのとき。
わたしは仕事で上海に来ていた。
上海で仕事を手伝っていただいていたのは、日本風に言うならば上海市役所の国際交流部日本課の方々であった。衛紅さんもそのメンバーのひとり、北京の外務省関係部門への転籍も話題にあがっていた。
89年のあの事件のあと、翌年四月の「浦東開発宣言」で上海を取り巻く対中投資環境は激変、わたしの仕事も多忙を極めていた。あの事件で西側諸国は「対中経済制裁」を科していたが、わたしたちは上海浦東の「国有地使用権の有償譲渡」政策に中国の一大変貌を読み取り、海部内閣の「天皇訪中」推進を支持していた。
神戸新聞(2008年2月20日)の「平成『象徴の軌跡』第2部 負の遺産(1)」(以下「神戸」)は、つぎのような書き出しではじまっている。
国論を分ける事態を前に、天皇陛下の苦悩は深まった。
「本当に訪問できるのだろうか」
・・・自民党の一部は「朝貢外交」と猛反発、保守系文化人らは『陛下の政治利用だ』と新聞に反対の意見広告を出した。
出発二ヶ月前にずれ込んだ閣議決定の八月二十五日、官邸前で右翼団体のトラックが炎上。「命懸けだった」と話す加藤紘一官房長官は、支えになったのは、伝え聞いていた陛下の「前向きな意向」だったという。
92年10月23日、「天皇訪中」は実現、日航特別機は北京の首都国際空港に到着した。
楊尚昆国家主席主催の歓迎宴が人民大会堂で開催され、同主席は次のように述べたと「朝日」縮刷版(92年10月24日、以下「朝日」と略)は伝えている。
・・・遺憾なことに、近代の歴史において中日関係に不幸な一時期があったため、中国国民は大きな災難を被りました。・・・前のことを忘れず、後の戒めとし、歴史の教訓を銘記することは両国国民の根本的利益に合致する。
これを受けた天皇陛下の「お言葉」で「過去」に触れた部分を「朝日」はつぎのように囲みで紹介している。
両国の関係の永きにわたる歴史において、我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります。
これが「朝日」一面の概要だが、「毎日」縮刷版では二面から三面にかけて関連記事が紹介されている。以下その見出しだけを拾うと「天皇陛下のお言葉(全文)」「対韓国と異なる表現」「楊主席のあいさつ(要旨)」「『加害者』の立場、端的に」「中国の市民は好感」などとなっている。
「朝日」33面での関連記事の見出しはつぎのように組まれている。
「『過去』のくだりに宴緊張」「『お言葉』訳文 追う楊主席」「スピーチ終え会場和む」「中嶋峯雄さん 天皇の気持ち 素直に反映」
西安を経て両陛下を迎える上海の歓迎ぶりのひとつとして、当時電力不足で夜間の照明に制限のあったバンドがその日から夜遅くまで照り輝くことになった。上海市人民政府あげての大歓迎で、皇后のアテンド・通訳は衛紅さんであった。天皇アテンドのわたしの友人たちは、握手した右手を三日間洗わないよと、おどけてわたしに左手を差し出したりしたが、衛紅さんはどうであったろうか・・・。
「神戸」はつぎのように記している。
最後の訪問地上海。厳戒態勢の北京では見られなかった市民の歓迎の輪が広がった。文化人や学生とも交流した陛下は帰国前、記者団に話した。
「晩餐会では中国への人々への気持ちを率直に述べました」「人の心は誠意を持って接すれば国境を超えて通じます」
「天皇訪中」後は円高も重なって、日本からの対中投資は進み、西側諸国も対中経済封鎖を解いていく。
それから二年後、江沢民政権は「愛国教育」を推進することになる。
あの日から二十年が経った。
震災後、復興の先頭に立っておられた貝原前知事は昨年末不慮の交通事故で亡くなられた。後継者でもある井戸現知事と五百旗頭氏(元神戸大学教授、防衛大学学長、現・ひょうご震災21世紀研究機構理事長)との対談が「ひょうご 県民だより」(一月号)で掲載されている。
「震災6ヵ月後に策定した“創造的”復興計画は、単に元に戻すだけでなく21世紀を先取りするような地域像を確立していこうというものでした」(知事)、「大衝撃を受けたことをしっかりと記録し、伝え、将来の世代にも担ってもらおうとする努力が大事です」(五百旗頭)。
あれから二十年が経った。
「阪神・淡路」はかたちの上では復興したが知事の指摘する“創造的”復興にはほど遠い。そこへ「3・11」があり、日本列島をとりまく“マグマ”は更なる試練を追い被せて来ることであろう。
衛紅さんの悔しさは、いまもわたしのこころにも響いている。
(2015年1月17日 記)
20年前のあのとき。
わたしの家は倒壊し、上海からの留学生・衛紅さんは下宿先で崩れ落ちた大黒柱の下で息絶えていた。
電車も電話も通じずに、四日目にやっとたどり着いた事務所でこの悲報を耳にした。上海から駆けつけられた両親や上司の慟哭のなか、おわかれのくるまは過ぎ去っていった。
それから三月ほど経ったころ、上海からの専門家数名を案内して神戸の街を視察することになった。
阪神間の電車はまだすべて不通で、わたしたちは大阪の港から乗船して神戸へ向かうことになった。六甲の山々は緑に映え萌えたっていたが、ところどころに切り裂かれたあとが痛々しく残っていた。
JR三宮駅前は、そごう百貨店の解体がはじまっていて粉塵が舞い散り、マスクをしていても息苦しかった。
三宮商店街から、ダイエー三宮店の倒壊現場を過ぎ、元町から須磨まではJRの車窓から崩れ落ちた神戸を見つめていた。須磨からは長田まで歩いて戻った。道すがら、その破壊のすさまじさに声もなく、シャッターを切るごとに頭(こうべ)を垂れ、手を合わせた。
長田の商店街で開いていた喫茶店で腰を下ろした一行は、開口一番、上海でこの規模の地震がおこったら半数以上の建物が崩壊、死者は数えきれない大惨事となるだろう、幸いこれまで大きな地震はなかったが、沿海には太平洋プレートが走っており、公表すると問題になるが上海市周辺にも活断層はいくつかある、高速道路の支柱は日本よりはるかに細く、やわらかい地盤に高層住宅の建設がはじまっている、などなど、上海の現状への不安が口をついて出た。
わたしも、あのとき、あの日、そしていま大阪の府営木造住宅での仮住まいから、どうしてわが家を再建するか悩んでいると語りはじめた。
はなしは、自然と衛紅さんのことに移っていった。
92年の「天皇訪中」のあのとき。
わたしは仕事で上海に来ていた。
上海で仕事を手伝っていただいていたのは、日本風に言うならば上海市役所の国際交流部日本課の方々であった。衛紅さんもそのメンバーのひとり、北京の外務省関係部門への転籍も話題にあがっていた。
89年のあの事件のあと、翌年四月の「浦東開発宣言」で上海を取り巻く対中投資環境は激変、わたしの仕事も多忙を極めていた。あの事件で西側諸国は「対中経済制裁」を科していたが、わたしたちは上海浦東の「国有地使用権の有償譲渡」政策に中国の一大変貌を読み取り、海部内閣の「天皇訪中」推進を支持していた。
神戸新聞(2008年2月20日)の「平成『象徴の軌跡』第2部 負の遺産(1)」(以下「神戸」)は、つぎのような書き出しではじまっている。
国論を分ける事態を前に、天皇陛下の苦悩は深まった。
「本当に訪問できるのだろうか」
・・・自民党の一部は「朝貢外交」と猛反発、保守系文化人らは『陛下の政治利用だ』と新聞に反対の意見広告を出した。
出発二ヶ月前にずれ込んだ閣議決定の八月二十五日、官邸前で右翼団体のトラックが炎上。「命懸けだった」と話す加藤紘一官房長官は、支えになったのは、伝え聞いていた陛下の「前向きな意向」だったという。
92年10月23日、「天皇訪中」は実現、日航特別機は北京の首都国際空港に到着した。
楊尚昆国家主席主催の歓迎宴が人民大会堂で開催され、同主席は次のように述べたと「朝日」縮刷版(92年10月24日、以下「朝日」と略)は伝えている。
・・・遺憾なことに、近代の歴史において中日関係に不幸な一時期があったため、中国国民は大きな災難を被りました。・・・前のことを忘れず、後の戒めとし、歴史の教訓を銘記することは両国国民の根本的利益に合致する。
これを受けた天皇陛下の「お言葉」で「過去」に触れた部分を「朝日」はつぎのように囲みで紹介している。
両国の関係の永きにわたる歴史において、我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります。
これが「朝日」一面の概要だが、「毎日」縮刷版では二面から三面にかけて関連記事が紹介されている。以下その見出しだけを拾うと「天皇陛下のお言葉(全文)」「対韓国と異なる表現」「楊主席のあいさつ(要旨)」「『加害者』の立場、端的に」「中国の市民は好感」などとなっている。
「朝日」33面での関連記事の見出しはつぎのように組まれている。
「『過去』のくだりに宴緊張」「『お言葉』訳文 追う楊主席」「スピーチ終え会場和む」「中嶋峯雄さん 天皇の気持ち 素直に反映」
西安を経て両陛下を迎える上海の歓迎ぶりのひとつとして、当時電力不足で夜間の照明に制限のあったバンドがその日から夜遅くまで照り輝くことになった。上海市人民政府あげての大歓迎で、皇后のアテンド・通訳は衛紅さんであった。天皇アテンドのわたしの友人たちは、握手した右手を三日間洗わないよと、おどけてわたしに左手を差し出したりしたが、衛紅さんはどうであったろうか・・・。
「神戸」はつぎのように記している。
最後の訪問地上海。厳戒態勢の北京では見られなかった市民の歓迎の輪が広がった。文化人や学生とも交流した陛下は帰国前、記者団に話した。
「晩餐会では中国への人々への気持ちを率直に述べました」「人の心は誠意を持って接すれば国境を超えて通じます」
「天皇訪中」後は円高も重なって、日本からの対中投資は進み、西側諸国も対中経済封鎖を解いていく。
それから二年後、江沢民政権は「愛国教育」を推進することになる。
あの日から二十年が経った。
震災後、復興の先頭に立っておられた貝原前知事は昨年末不慮の交通事故で亡くなられた。後継者でもある井戸現知事と五百旗頭氏(元神戸大学教授、防衛大学学長、現・ひょうご震災21世紀研究機構理事長)との対談が「ひょうご 県民だより」(一月号)で掲載されている。
「震災6ヵ月後に策定した“創造的”復興計画は、単に元に戻すだけでなく21世紀を先取りするような地域像を確立していこうというものでした」(知事)、「大衝撃を受けたことをしっかりと記録し、伝え、将来の世代にも担ってもらおうとする努力が大事です」(五百旗頭)。
あれから二十年が経った。
「阪神・淡路」はかたちの上では復興したが知事の指摘する“創造的”復興にはほど遠い。そこへ「3・11」があり、日本列島をとりまく“マグマ”は更なる試練を追い被せて来ることであろう。
衛紅さんの悔しさは、いまもわたしのこころにも響いている。
(2015年1月17日 記)