阿姨(ア・イ)の里帰り
ことしの春節(旧正月)は例年より20日ほど遅い2月の19日からとあって、中国をはじめアジアの華僑圏ではこれからが迎春の準備で忙しくなる。
中国では数人に一人の里帰りで、3億におよぶひとたちの大移動がはじまる。
わたしが阿姨なることばにはじめて出会ったのは、80年代も終わりに近いころであった。
上海での委託加工先の窓口商社の担当者がお産で休暇をとり、お祝いと称して旧フランス租界にある広大な邸宅を訪問した。もとはテニスコートもあった庭も、半分以上が接収されて市の幹部のオフィスになっている由だが、緑に覆われた3階の洋館は主人の両親とその親戚など四世帯の住居としても優雅なものであった。
彼女は出産前から復職の準備に杭州の田舎から中卒の少女を雇っていた。この子守役の阿姨さんが、ダメなの、普通話(プートン・フワ=標準語)が
なってない、こどもにへんな訛りがついたら困るから、まず阿姨さんの教育でタイヘン、二年間は出社できないと上司に頼んだばかり、仕事はダイジョウブよ、わたしが家からサポートしておくからとのご託宣であった。
上海の幹部には全托(月~土、終日託児)と称する保育施設が設けられていたが、彼女の家庭は婦女聯など党の組織の恩恵にはあずかれない“出身”であったのだろう。
中国の小学校の登・下校風景をご覧になったことがあるだろうか。
校門の前は見送り、出迎えのひとたちであふれている。
若い両親は仕事が忙しくて、こどもの登・下校の面倒をみることができない。必然的にその仕事は年寄が担当となる。だいじな一人っ子の孫はまさに“十二の瞳”に甘やかされて大きくなる。
長らく日本に滞在して子供を日本の小学校に通学させたことのあるわたしの友人たちも、帰国するとこの“習慣”は守らねばならない。肉親の老人がいないとだれかに駄賃を渡してお願いすることになる。日本の子供たちのように集団登下校させたらいいじゃないか、子供たちも日本ではそうして過ごしてきたじゃないか、集団の登下校もチームワークなど学ぶこともあっただろうと話したこともあるが、学校もそうだが、年寄は反対するよ、日本でもよく誘拐や殺人があるじゃないか、中国でも人攫いがある、安心できないよ、といわれると耳が痛い。
わたしは中国に駐在したことがないので、生活体験はない、ましてや阿姨さんと接触したこともないが、いまの中国ではこのお手伝いさんは結構社会のニーズに応じて、機能しているらしい。
仕事が忙しい若い夫婦は、家事もあまりする時間がない。子供は老親が面倒見てくれるとしても、家の掃除・洗濯・炊事などを契約ベースのパートでもやってくれるとか。阿姨さんの派遣会社が身元保証人にもなるようなので、日本の家政婦などより普遍化しているようである。
ネットサーフィンすると、日本の駐在員の家庭でもよく利用されているとか、阿姨さんの料理が上手なので、主婦のわたしはほかのお稽古事に励めてラッキーとか、子供がなついて喜んでいるとか・・・そこで春節、阿姨さんの里帰り、となる。子供も学校が休みなのでわたしも日本へ里帰りできるが、主人の休暇は多くないので、ウウ~ン・・・。
阿姨さんは四十前後のひとが多いよう、夫も出稼ぎでこの春節に田舎の老親や面倒を見てもらっている子供たちと一年ぶりに会うのが楽しみ。荷物が多くなるので春節休暇(祝日)より早く、長く(一月以上)里帰りしたいのがホンネ。こちらの希望どおりの休みがもらえないなら、やめさしていただきます、となる。
駐在員の家庭相手なら、それこそ話し合いでなんとかなるが、困るのが老人の家庭。中国でも核家族がふえてきて、孤老のひとたちも多い。
数年前、藤村幸義さん(元拓殖大学教授)の『老いはじめた中国』(アスキー新書)を手にして、中国の老齢化の実態に括目しはじめた。一人っ子政策の影響がここにも現れてきているが、いまや上海を筆頭に「老齢社会」(六十歳以上の人口が総人口の十四%を越える)の波が中国の諸都市を覆い、あと数年で全中国が「老齢社会」となり、その後も高齢化が進んで2050年には65歳以上の人口は六億人を越えると見込まれている。日本はすでに高齢化率21%以上の「超高齢社会」になっているが、日本以上に社会福祉制度の普及が遅れている中国の、これは大きなアキレス腱、環境問題の改善とあわせて大きな社会問題となる。
中国の老人ホームは見学したことがないのでその実際は承知しないが、映画『再会の食卓』(小著『徒然中国』P218)で紹介した路地裏のひとたちの暖かい交流の場所が次第に少なくなってきている。
上海の路地奥には隣近所の人があふれ、子供たちの歌が流れる。
♪チャン ティーン ワァイ グーダオビエン・・・♪
そして、あの人が大きなボストンバッグを提げてやってきた。
「再会の食卓」には一族郎党がすべて、娘と婿、孫と独身の息子が集い、地元街道委員会のおばさんが歓迎の杯を挙げる
九十年代のいつごろだったか、わたしは南京西路/華山路の百楽門大酒店に数日滞在していたときのこと。ふと窓から下の交差点に目をやると、爺さんや婆さんが手をつないで座り込んでいた。地元の世話役だろうか、年寄たちに話しかけているが、老人たちは動こうとしない。車は誘導されて、この交差点を迂回している。周辺には大勢の市民が詰めかけていた。ホテルの従業員に聞くと立ち退きに反対している、らしい。老人たちの言い分は立ち退いてもいいが、
全部一緒でなければいやだ、ということらしい。老人たちの座り込みは三日続き、公安がひとりずつ抱きかかえてこの座り込みを排除した。手荒な態度はとらなかったが、その翌日から周辺の住宅の打ちこわしがはじまり、数日のうちに空き地となった。
帰国後上海出身の、大学で教鞭をとっている友人にその光景を話した。
彼も長男でいずれ父親と一緒になろうと、マンションを二戸購入済であったが、いまの住まいの友達たちと離れるのが嫌だと同意しない、という。いずれ
立ち退きで市の宛がうマンションに移されるのだが・・・と嘆いていた。
もう一度映画『再会の食卓』(P220~21)の場面を振り返ろう。
元の老街の家は取り壊され、隣近所の人たちもそれぞれがどこかのマンションに移っていった。
人のつながりが無くなり、と・・・ナナの携帯が鳴る。
二年だけよ、と念押しするナナ。
彼がアメリカに行くことになった。
わかった、そこへ行く。
孫も出かけて、部屋には二人だけ・・・そして、ジ・エンド。
いまの中国で阿姨を自費で雇えるひとはそれほど多くはないだろうが、孤老のひとは阿姨が早く里帰りから戻ってくるのを待ち望んでいる。
年をとると、ひとり住まいは淋しいのである。
大家 春節好! 身体健康! 新年愉快!
(2015年2月13日 記)
ことしの春節(旧正月)は例年より20日ほど遅い2月の19日からとあって、中国をはじめアジアの華僑圏ではこれからが迎春の準備で忙しくなる。
中国では数人に一人の里帰りで、3億におよぶひとたちの大移動がはじまる。
わたしが阿姨なることばにはじめて出会ったのは、80年代も終わりに近いころであった。
上海での委託加工先の窓口商社の担当者がお産で休暇をとり、お祝いと称して旧フランス租界にある広大な邸宅を訪問した。もとはテニスコートもあった庭も、半分以上が接収されて市の幹部のオフィスになっている由だが、緑に覆われた3階の洋館は主人の両親とその親戚など四世帯の住居としても優雅なものであった。
彼女は出産前から復職の準備に杭州の田舎から中卒の少女を雇っていた。この子守役の阿姨さんが、ダメなの、普通話(プートン・フワ=標準語)が
なってない、こどもにへんな訛りがついたら困るから、まず阿姨さんの教育でタイヘン、二年間は出社できないと上司に頼んだばかり、仕事はダイジョウブよ、わたしが家からサポートしておくからとのご託宣であった。
上海の幹部には全托(月~土、終日託児)と称する保育施設が設けられていたが、彼女の家庭は婦女聯など党の組織の恩恵にはあずかれない“出身”であったのだろう。
中国の小学校の登・下校風景をご覧になったことがあるだろうか。
校門の前は見送り、出迎えのひとたちであふれている。
若い両親は仕事が忙しくて、こどもの登・下校の面倒をみることができない。必然的にその仕事は年寄が担当となる。だいじな一人っ子の孫はまさに“十二の瞳”に甘やかされて大きくなる。
長らく日本に滞在して子供を日本の小学校に通学させたことのあるわたしの友人たちも、帰国するとこの“習慣”は守らねばならない。肉親の老人がいないとだれかに駄賃を渡してお願いすることになる。日本の子供たちのように集団登下校させたらいいじゃないか、子供たちも日本ではそうして過ごしてきたじゃないか、集団の登下校もチームワークなど学ぶこともあっただろうと話したこともあるが、学校もそうだが、年寄は反対するよ、日本でもよく誘拐や殺人があるじゃないか、中国でも人攫いがある、安心できないよ、といわれると耳が痛い。
わたしは中国に駐在したことがないので、生活体験はない、ましてや阿姨さんと接触したこともないが、いまの中国ではこのお手伝いさんは結構社会のニーズに応じて、機能しているらしい。
仕事が忙しい若い夫婦は、家事もあまりする時間がない。子供は老親が面倒見てくれるとしても、家の掃除・洗濯・炊事などを契約ベースのパートでもやってくれるとか。阿姨さんの派遣会社が身元保証人にもなるようなので、日本の家政婦などより普遍化しているようである。
ネットサーフィンすると、日本の駐在員の家庭でもよく利用されているとか、阿姨さんの料理が上手なので、主婦のわたしはほかのお稽古事に励めてラッキーとか、子供がなついて喜んでいるとか・・・そこで春節、阿姨さんの里帰り、となる。子供も学校が休みなのでわたしも日本へ里帰りできるが、主人の休暇は多くないので、ウウ~ン・・・。
阿姨さんは四十前後のひとが多いよう、夫も出稼ぎでこの春節に田舎の老親や面倒を見てもらっている子供たちと一年ぶりに会うのが楽しみ。荷物が多くなるので春節休暇(祝日)より早く、長く(一月以上)里帰りしたいのがホンネ。こちらの希望どおりの休みがもらえないなら、やめさしていただきます、となる。
駐在員の家庭相手なら、それこそ話し合いでなんとかなるが、困るのが老人の家庭。中国でも核家族がふえてきて、孤老のひとたちも多い。
数年前、藤村幸義さん(元拓殖大学教授)の『老いはじめた中国』(アスキー新書)を手にして、中国の老齢化の実態に括目しはじめた。一人っ子政策の影響がここにも現れてきているが、いまや上海を筆頭に「老齢社会」(六十歳以上の人口が総人口の十四%を越える)の波が中国の諸都市を覆い、あと数年で全中国が「老齢社会」となり、その後も高齢化が進んで2050年には65歳以上の人口は六億人を越えると見込まれている。日本はすでに高齢化率21%以上の「超高齢社会」になっているが、日本以上に社会福祉制度の普及が遅れている中国の、これは大きなアキレス腱、環境問題の改善とあわせて大きな社会問題となる。
中国の老人ホームは見学したことがないのでその実際は承知しないが、映画『再会の食卓』(小著『徒然中国』P218)で紹介した路地裏のひとたちの暖かい交流の場所が次第に少なくなってきている。
上海の路地奥には隣近所の人があふれ、子供たちの歌が流れる。
♪チャン ティーン ワァイ グーダオビエン・・・♪
そして、あの人が大きなボストンバッグを提げてやってきた。
「再会の食卓」には一族郎党がすべて、娘と婿、孫と独身の息子が集い、地元街道委員会のおばさんが歓迎の杯を挙げる
九十年代のいつごろだったか、わたしは南京西路/華山路の百楽門大酒店に数日滞在していたときのこと。ふと窓から下の交差点に目をやると、爺さんや婆さんが手をつないで座り込んでいた。地元の世話役だろうか、年寄たちに話しかけているが、老人たちは動こうとしない。車は誘導されて、この交差点を迂回している。周辺には大勢の市民が詰めかけていた。ホテルの従業員に聞くと立ち退きに反対している、らしい。老人たちの言い分は立ち退いてもいいが、
全部一緒でなければいやだ、ということらしい。老人たちの座り込みは三日続き、公安がひとりずつ抱きかかえてこの座り込みを排除した。手荒な態度はとらなかったが、その翌日から周辺の住宅の打ちこわしがはじまり、数日のうちに空き地となった。
帰国後上海出身の、大学で教鞭をとっている友人にその光景を話した。
彼も長男でいずれ父親と一緒になろうと、マンションを二戸購入済であったが、いまの住まいの友達たちと離れるのが嫌だと同意しない、という。いずれ
立ち退きで市の宛がうマンションに移されるのだが・・・と嘆いていた。
もう一度映画『再会の食卓』(P220~21)の場面を振り返ろう。
元の老街の家は取り壊され、隣近所の人たちもそれぞれがどこかのマンションに移っていった。
人のつながりが無くなり、と・・・ナナの携帯が鳴る。
二年だけよ、と念押しするナナ。
彼がアメリカに行くことになった。
わかった、そこへ行く。
孫も出かけて、部屋には二人だけ・・・そして、ジ・エンド。
いまの中国で阿姨を自費で雇えるひとはそれほど多くはないだろうが、孤老のひとは阿姨が早く里帰りから戻ってくるのを待ち望んでいる。
年をとると、ひとり住まいは淋しいのである。
大家 春節好! 身体健康! 新年愉快!
(2015年2月13日 記)