表紙の写真
昨年末上梓した小著『徒然中国―みてきた半世紀の中国』の表紙の写真について、読者から質問が舞い込んでいた。
あの建物はなんですか、だれが撮った写真ですか・・・。
あれは2010年の9月、上海万博の会場でわたしが撮ったものだが、織物のような壁からわたしはてっきりむかしの日本の紡績工場を活用したものと思い込んでいたのだが・・・。
その後しばらくしてから、手持ちの『上海―歴史ガイドマップ』(木之内誠編著・大修館書店刊、2004年4月再販)を開いた。
紡績工場はない・・・。
この写真の建物は、万博会場Eゾーン・ベストシティ実践区の、パビリオン実践例(中部)の一画にあった、と記憶する。
上海の友人に問い合わせをすると、南市火力発電廠の敷地内とのこと。あらためて、「上海万博公式ガイド」をとりだして眺める。
あった!・・・。
高い発電所の煙突の突きん出たイラストマップの片隅に、この建物群が描かれていた。『上海―歴史ガイドマップ』によると、「南市発電廠(1897)」とある。
「チャイナプレス」(07年10月29日)はつぎのように報じている。
先日、110年の歴史を持つ黄浦江上海南市発電所が操業停止された。
上海市では、今年3ケ所の小型火力発電所を操業停止する予定(中略)。
これにより、上海市黄浦江流域にはほぼ火力発電所がなくなる予定。
内外綿や華紡(カネボウ)の工場や宿舎などが、上海の東部・普陀区周辺に散在していたことは横光利一の小説『上海』などで先刻承知していたが、わたしの思い違いにしろ、この織物風の壁はシャレていて火力発電所の建物には似つかわしくない・・・どうなっているんだろう?
わたしはこのとき一緒に参観したメンバーや建築関係者、上海在住の日本の方などにメールした。
ひとつのヒントがもつれた糸を解きほぐしていった。
換骨奪胎、とでもいうのだろうか、上海の都市改造でよく使われている手法で、古い工場とか倉庫などを再生する=創意園区(クリエィティブ・パーク)。
すでに新しい観光地区として甦っている「田子坊」、「新天地」、「8号橋」は数年前にも足を運んでいたが、この写真の建物もその手法で改造・創生されたのではないか・・・。
浮かんできたのは「8号橋」をコンペで入札、「創生」させた企業であった。
2003年、三人の日本人の建築家が上海で創業した設計事務所。
この「8号橋」の実績を踏まえ、05年には上海万博当局からの指名入札で、わたしの「表紙の写真」の建物の、リニューアルを完工した。いまでは日本人十数名を含むスタッフ七十余名の現地企業として、基本設計から将来的には実施設計についで設計管理までをトータルにこなせる、完全な設計事務所を目指しているとのこと。若いスペシヤリストのこれからのご活躍が楽しみである。
2010年9月、「上海都市研究会」のメンバーなど十数名が上海万博参観に出かけた。
空港から上海の旧県城(租界ではないオールドシャンハイ)へ直行、城壁から新旧混在の街並みを眺めたあと、すっかりきれいになった文廟(孔子廟)から蓬莱路へと足を運んだ。この303弄「老街保留区」は、上海都市研究会誕生の地点でもある。
82年6月、大阪府日中友好協会の外郭団体の事務局長に就任したわたしの第一歩は、前年の学者先生方の「上海・江蘇経済開発区」(当時)視察のフォローアップにあった。
大阪市-上海市の友好都市提携のあと、学術交流の交換教授として上海同済大学に長期赴任されたことのある大阪市大の斎藤和夫先生(大阪)と同済大学の李徳華教授(上海)をキャップに、双方の都市計画の専門家が上海の市内と郊外の二箇所で実態調査、共同考察を行い、改造計画を練り上げた。
南市区蓬莱路の対象地点を魚眼レンズで撮影していた専門家が住民に取り囲まれ、難詰されるというハプニングもあったが、日本側提案による「旧区改造プロジェクト」は認可され、85年5月には当時の担当副市長と会談、その労をねぎらわれた(「日経」のトップ記事として報道された)。
この共同考察のなかで上海の専門家との交流は深まり、上海万博と旧南市区の改造についてさまざまな情報の交換があった。いまネットで検索すると『段躍中日報』にもその一端が出てくる。
「303弄」に着くと、地区街道委員会の腕章を巻いたひとたちがいろいろと世話をやいてくれた。あとで上海の友人に伺うと、この地区はいまでは地方出身者の居住地になっているという。
80年代の「改造計画」では、複数の家族が住まいするこの石庫門住宅をより快適に過ごせるようにと「改造」したのであるが、いまではここの「南市区」住民は新しい高層住宅に移転、家賃が安いので「非市民」が大挙流入してきているとか・・・街道委員会のひとたちは、わたしたちが90年代のはじめのように各戸を訪問・見学などをして、いまの住民とトラブルが起きないよう「配慮」していただいていたのであった。
夕食は「上海新天地」のレストランでとった。
この地区もリニューアルされたものであるが、押すな押すなの大盛況で「まち」は拡張され、このレストランも「新開地」に―外観は古めかしいが「新築」されたものであった。「303弄」以後交流のある旧南市区の都市計画担当の副区長であったCさんなど老朋友をお招きしての宴(うたげ)は、思い出話で盛り上がり、尽きることがなかった。
わたしと同年と思い込んでいたCさんは二つ年上であったが、住民の新住宅への移転に全力を尽くされたご本人が未だエレベーターのない4階の旧住宅にお住まいと知って驚いたこと、豫園の改造計画のはじめからその実施・完了まで総指揮も執られたご本人がいまそのいきさつを本にすると部数の2割を自己負担で買取りとか、いろいろと身につまされるお話もあり、別れが惜しまれた。
先夜 「上海都市研究会」のメンバー四名が会食し、今秋 上海を再訪することになった(四泊五日)。
わたしの「表紙の写真」の現場を含め、上海万博の跡地利用の視察とハンガリーの建築家ラズロ・ヒューデックの記念館(旧住居)や上海に残る国際飯店
ほか彼の設計した建造物の見学ツアーである。
細目はこれから詰めることになるが、わかいひとたちの企画と行動力で安くて楽しいたびのプランが間もなく出来上がることだろう。
三年目の上海、今宵はひさしぶりに春がやってきたような華やぎを感じて酒盃がかさむ。
(2015年3月12日 記)