くに楽

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徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之八拾八

2015-07-08 18:59:34 | はらだおさむ氏コーナー
孟母三遷


 もうネクタイをしなくなって久しいが、夏になるとときおりループタイをつけるときがある。いずれも中国の旅で気まぐれに手にしたものである。
 80年代にはじめて杭州へ旅したとき、土産店で手にしたループタイは、陶器の破片がモチーフになっていた。手にとって眺めていると店主が、紅衛兵が壊さなかったらいい文化財であったのにとつぶやいた。由緒はわからないが、それを身に着けて天津に行くと、友諠商店の店員がわたしのループタイを譲ってくれという。買値よりかなりよい値を口にしたが、それはもうダメ、なんだか首に巻くのも恐れ入って、これは仕舞い込んだまま。
 それからは、シルクロードや各地の山村でいくつかの工芸品のようなものを手にしたが、それは旅の気まぐれ、ほとぼりが冷めると使うことも忘れる。そのなかでこのところ愛用しているのが、艶のある木切れに紐を通しただけのシンプルなこれ・・・。そう、あの旅先で手にしたものである。

 2007年9月、山東省の青洲・泰山・曲阜のたびに出た。
 70年代後半は輸入商談で青島へはよく出かけていたが、いずれも列車のたび。北京から夜行列車でススまみれになって到着した青島の夜明け、青島から済南経由の夜行列車で南京に向かう軟座での中国人老学者との出会いなど、この沿線の車中の思い出はつきないが、車窓から眺める泰山や曲阜にはとうとう訪れる機会がなかった。
 今回の旅は古美術に詳しいSさんのアイデアに便乗した企画であったが、5月に施術した左大腿部患部の病理検査の結果が悪性腫瘍であったことから、その催行に戸惑いを覚えた。すでに参加メンバーは確定しており、旅の手配も進められていた。旅行社とSさんの了解をとり、不参加もありと8月はじめにその摘出手術をうけた。梅原猛先生の『三度目のガンよ 来るならごゆるりと』(光文社)の心境であった。当然とはいえ、局部麻酔では手術室の音声が耳に入る。これまでの経験から、ヘッドホーンで加古隆のCDを聴くことにした。枕元の麻酔医にお願いして2クール目までCDをかけなおしてもらったが、術後病室を訪れた担当医のはなしでは、患部を深く切除したのでその縫合に時間がかかったとか・・・。
 退院後一月たらずの今回の旅は、杖を突いての参加とあいなった。

 秦の始皇帝のひそみにならって、そののち即位した各皇帝はこの泰山に登攀、東海から昇るご来光に五穀豊穣と国家安泰を祈願したと伝えられているが、江沢民もその絶頂期には二日間観光客をシャットアウトして登頂、そのご利益がいまも残っているのであろうか。
 中国の善男善女は海外組も含め、七千余の階段をよじ登ってごりやく(利益)にあずかろうとするが、一般の観光客は高い料金を払ってロープウエイで展望台の下まで上る。
 わたしもそこまで。
 メンバーが展望台から降りてくるまでの小一時間、絵葉書売りの少女(地元の女子大生であったが)のお手伝いをして過ごした。“重きこと 泰山の如し”にあらず、“軽きこと 胡蝶のごとし”であった。

 その翌日からの、「曲阜三孔」観光は、杖を突きつきのわたしには苦行難行のコースであった。
 シンガポール建国の父、故リー・クワンユーは「中国の汚職や腐敗の根源は、文革時代に起きた正常な道徳的基準の破壊である」と指摘しているが、このところの「道徳教育」の復活で、それは是正されるのであろうか。
 孔子の復活は、中国国内にとどまらず、世界の各地にも孔子学院の設立・普及で拍車がかかっているようだが、その“本山”ともいうべきこの孔廟、孔府、孔林の建物の階段や敷居などにはギブアップした。わたしにとっては、世界遺産よ~さようなら。最後は入り口に座り込んで、巷の光景に目をやっていた。

 ことのついでにと、孟子廟へ行こうということにあいなった。
 クルマで40分ほど、地図でみると南下したことになるが、鄙びた街なかの左手に砂塵でけぶった太陽がぼんやりと浮かんでいたような気がする。
 孟子廟には、人っ子ひとり見かけなかった。
 うっそうと茂った木立には、スズメや野鳥が喉を競い合い、リス?のような小動物が駆けていた。
 夜来の雨で水はけも悪く、わたしは奥の廟まで足を運ぶのをパスして、道に面した小屋で休むことにした。少女がわたしに椅子をすすめてくれた。薄よごれたショウケースには黄ばんだ冊子がならび、その横にいくつかの商品があった。いま愛用しているループタイはここで手にしたもの。三つの小さな穴は、目と口であろうか、じっと眺めていると孟子の慈母のような気がしてきた。

 孟子の母は、その育児中に三度も引越しをしている。
 はじめは墓地の近くであったが、葬式のまねばかりするので市場の近くへ
引っ越した。すると今度は商売のまねばかりして遊ぶので今度は学校の近くへ。すると孟子は生徒のまねをして本を読んだり、文を書いたりして勉強するようになったという。孟母三遷の由来である。
 これは現在でも幼児心理学的に立証されているという。
子供の人格形成は、数歳までの環境に負うことが多い、とか。

 わが一生を省みて、どうだろうか・・・。
 わたしは尼崎の寺町筋で生をうけ、小学校一年(この学年から国民学校となるが)の二学期までここで過ごした。この町筋で小商売をしていた家の五人兄弟姉妹(末弟はその三年後に誕生)のちょうど真ん中。五歳上の兄の入賞作「父上出征中」の墨書が部屋にあったから、父は不在であったのだろう。
お寺の墓地で遊んでいて住職に叱られた記憶がある。小学生になってお小遣いを毎月五十銭もらい、自分で『少年倶楽部』などを買い、映画館へひとりで出かけていた(母は妹たちの子育てや店の商いで“てんてこ舞い”であったのだろう)。
 小一の三学期に店をたたみ、国道の北の長屋に引越ししている。
父は除隊して、勤めていた。
 小四の七月、いまは神戸市北区になっている農村にひとりで縁故疎開。
十月ごろ、母は姉・妹ふたりと生後半年ほどの弟を引き連れて来て、農家の納屋を借りての生活が始まった。父はまた戦地へ、兄は関東の兵学校へ行き・・・わたしは“ほしがりません 勝つまでは”と、田舎の子のいじめに耐え、読む本もないので兄の中学の教科書を手にして、小泉八雲の怪談に慄いたりしていた。

 いま わが国の偉い人は、崇敬するおじいちゃんの話ばかり聞いて、少年時代をすごされていたのであろうかと、ふと思う昨今である。
                 (2015年7月6日 記)
 


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1 コメント

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そんな時期があったのですね (ku-ma)
2015-07-08 19:09:13
はらだ さま

幼少のことは、ほのぼのしますね
時代とともに生活は変わりますが、お互いたくましく生きましたね あの時代
なつかしいです
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