猪名川の氾濫
~ 元文五年(1740)の洪水を中心に ~
(一)
「六月九日、・・・九つ時くもり七つ時よりふり、・・・暮六つ時神鳴(雷)夕立六つ過よりひかり大夕立、夜大雷火に光り大夕立、夜中時より門々ニ火ヲつる。大水夜中時より北ノ口①京や太右衛門流レ、・・・流レ、木部新田流レ出在家ノ上切レ山王岩下切れ、中山海道より小花へ切り込み・・・」(池田市史・史料編第二巻「伊居太神社日記」)。
元文五年(1740)六月九日、畿内全域に豪雨が降り、とりわけ摂州川辺郡周辺では大きな被害が出た。
猪名川下流の尼崎藩杭瀬村にある真宗西本願寺派末寺・西光寺の住持了諦は、「家の記録」②に「能勢郡より多田郡之山を吹出ス水 池田川筋切所多当寺境台(内)へ水入」と認め③、六月十三日付けで尼崎藩の寺社奉行田中清助様あて以下の被害届けを出している。
覚
一 当寺所持之田地水押
高拾九石壱斗壱升六合九勺
一 死人 無御座候
一 牛馬怪我 無御座候
一 潰家 無御座候
一 寺内倒木 無御座候
右ハ当月九日之夜満水ニ付、水押入及破損候儀
書付指上申候 以上
元文五申六月十三日
杭瀬村 西光寺 印
田中清助様
①池田郷町の能勢街道に通じる「北ノ口」。いまの池田市新町、猪名川に面し対岸は小部村。
②「家の記録」(「源光寺文書」)は尼崎市杭瀬西光寺の元禄三午(1690)六月~天明七年(1787)六月の記録。本山からの連絡を含む宗教行事、御触れなどの写しが中心であるが、ときおり本文のような身辺記述もある。
③本記述は、「右案文同事ニ而」と閏七月、八月の三度の「水押」時に寺社奉行へ「書付差上候写」に書かれている。この覚の末尾に小さく追記されたもので、挿入した時期は不明であるが、出水後の伝承を書き添えたもの。
(二)
猪名川は、猪名川町の大野山から発し、渓谷を南流して屏風岩の狭窄部を通って南下、大小あわせて42本の支流と合流しながら兵庫県と大阪府の境界流域を通過、戸の内の南で神崎川に合流して6.5km下流で大阪湾に流入する。流域面積383平方km、幹線流路延長43.2kmの典型的な都市河川で、流域には猪名川町、川西市、宝塚市、池田市、伊丹市、豊中市、尼崎市の6市1町が連なっている(国土交通省ホームページなど参照)。
「摂津国名所旧跡絵図」①でその流れを辿ってみる。
能勢の奥から多くの枝川が銅山(川辺郡)を越えて一庫川に集まり、多田院の手前で猪名川本流に入る。箕面(豊島郡)の奥から五月山の後背を通り抜けてきた久安寺川(余野川)と鼓滝の南で合流、川辺・豊島の郡境に沿って南下する。左岸(東)に池田郷町、右岸からは中山寺への巡礼道や小浜宿に向かう有馬街道が連なる。郡境は猪名川からすこし東に寄り、伊丹郷町が近づいてくる。荒木村重古城附近(現神津大橋南)で本流から藻川が分かれ、いまの尼崎市域②に入る。本流は岩屋の下(しも)で千里川を合流し、再び川辺・豊島の郡境に沿って下る。この流域は水争い(水論)の頻発した九名井(原田井)の地点である。この先で「池田川」がはじめて絵図に大きく「猪名川」と記載される。州到止(すどし)で神崎川に合流、藻川も戸ノ内の先で神崎川に入る③。対岸は西成郡加島、「カンザキノワタシ」の右岸に「遊女塚」がある。
元文5年6月9日の夜半から10日にかけて、杭瀬村の西光寺周辺に流れ込んだ「水押」は、どの川からきたのであろうか。
「能勢郡より多田郡之山を吹出ス水 池田川筋切所多当寺境台(内)へ水入」来たのは、上流の決壊箇所から灌漑用水路を伝って溢れ出してきたのか、それとも近くの左衛門殿川の堤が決壊したのであろうか。「当寺所持田地」は冠水したが、死人・牛馬怪我なく、潰屋・倒木なし、という被害届からみれば、この書き出し―「能勢郡より多田郡之山を吹出ス水」―は、上流地域からの被害の大きさを漏れ伝え聞き、恐れおののいているかのようである。
①「摂津名所図会でみる猪名川の今昔」(国交省猪名川事務所編)の付図。
②藻川流域の村々は当時尼崎藩領ではなく、直領、大名、旗本領またはそれらの入組が多かった。
③この絵図では藻川は直接神崎川に流入しているが、現在は昭和40年前後の戸ノ内、利倉の捷水路工事の結果、猪名川と合流後神崎川に注入している。藻川の流れはときおり移り変わっていたのだろうか。
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