天保上知令のことなど
夏が近づくと、よく思い出すことがある。
そのひとつは、敗戦詔勅(ラジオ)の数日後のこと。
疎開先の農繁期休暇の繰上げ登校で、「国民学校」の五年生であったわたしたちが先生の指示で一番先にしたのは、教科書を墨で塗りつぶすことであった。たしか“国造り神話”の一節、神の矛先のしずくから“淡路島”が産まれた、とかの話であったように憶えている。この思い出は、わたしのこころにトゲのように突き刺さり、後年入院時に書き綴った詩集のなかの一篇にもなった。
わたしの同世代は、「小学校」を出ていない。
創設されたばかりの「国民学校」の一年に入学、戦時体制下の“ホシガリマセン カツマデハ”と疎開や空襲などのときを過ごして、敗戦後の最後の「国民学校」を卒業した。そのあとは「新制中学」の第一期生として、自前の校舎も無い、“六・三制 野球ばかり 強くなり”の日々を過ごすことになる。
ふたつ目の思い出は、高2の夏、テニス部の合宿のときのこと。
テニス部部長の数学の先生から進学のことを聞かれた。文系の大学受験には数学は不要と信じ込んでいたわたしであったが、それは旧制のはなし、新制大学ではたとえ文系であろうと理数は必修科目と、即刻退部を命じられた。それからは不得意の数学に熱中したが、一期校は見事“サクラチル”、二期校の数学は、いまでも満点と信じ込んでいるが、わたしの人生設計は大きくカーブを切った。この独断と思い込みは、人生のたそがれ、“午後七時の太陽”になったいまも健在のようである。
“七十の手習い”ではじめた古文書の学習にも、この性癖がちらつく。
いまだ判読できない文字も多いが、地方文書(じかたもんじょ)だけでは地元の歴史もつかめないと、四年前から同好の士と『宝塚市史』の輪読会をはじめた。知らないこと、わからないことばかり、それは地元の歴史だけではなく、日本の歴史全体にもつながって、間口は広がり、迷路に入り込んで身動きが取れなくなってきている。
そのひとつに「天保の上知令」があった。
わたしの生まれ育った尼崎市では、上知令(あげちれい、じょうちれい、とも)というとすぐ脳裏に浮かぶのは、明和六年(一七六九)のあの上知令、いまの西宮市、芦屋市、神戸市の東部(兵庫津=神戸港を含む)の豊かな海岸線沿いの尼崎藩領が幕府に召し上げられ、その代替地として播磨の農村地帯があてがわれた。絞油、酒造、海運業など豊かなこの地域の上知は、尼崎藩にとって表向きの石高では測りきれない経済的損失であった。
ところが、である。
念のため、「上知令」を電子辞書などで確認すると、一般的には「天保上知令」を指すらしい(『広辞苑』ほか)。
さてさて、という次第で昨秋書き上げたレポート「“雪の殿様”と天保上知令」(宝塚の古文書を読む会冊子「源右衛門蔵」16号へ寄稿)のことになるのだが、この時代の中国はどうであったのだろうか・・・。
いまユーチューブで中国映画「阿片戦争」(謝晋監督)を見直した。
清国第八代道光帝のとき、イギリスの持ち込む阿片で国の財政が行き詰まり、林則徐にその廃棄処理が命じられる。そうだ、広州での林則徐のあの勇姿を思い出した。一八四〇年四月、イギリス議会は討論の末(花瓶=チャイナが割られ)、9票の差で中国への懲罰戦争が議決される。同六月に出兵、イギリス艦隊は意表をついて広州ではなく天津を攻撃した。清軍の敗北、そして二年後の南京条約の締結・・・このときから中国の「屈辱の百年」がはじまるのでる。
鎖国日本ではあるが、長崎経由で外国の情報は絶えず入ってきていた。
また、イギリス船やロシア船などがそれまでにも来航、文政二年(一八二九)には「異国船打払令」も出されている。
「天保期は気象上からみれば、小氷期にあたっていた。降水は雨でなく、雪になることが比較的多かった」との書き出しではじまるわたしの前述のレポートは、幕閣「ロウジュウ(老中)・シックス」で執行される天保の改革の一断面を描いている。もちろん老中首座は水野忠邦である。他の五人の老中は月番(交代)制ではあるが、大塩平八郎の乱のとき大坂城代であった土井利位(どい・としつら)が京都所司代を経て天保十年(一八三九)幕閣に加わっている。
老中首座について二年目の天保十二年、忠邦は将軍家慶の支持のもと、いわゆる「天保の改革」に乗り出す。ひとつは農村への帰農を促す「人返し令」による殖産振興策、さらに物価の騰貴を抑え、流通経済を促進させる「株仲間の解散」などであった。十余年前の「異国船打払令」を撤回して、外国船に薪や水など必要な物資を与えて穏便に帰す「薪水給与令」を定めたのは、前年の中国における「阿片戦争」への対処であろう。
さらに翌天保十三年、江戸や大坂の十里四方の大名や旗本領(いわゆる私領)の幕府への返上(上知)令は、ホントに首都防衛にまで意識していたのか史料的には明確ではないのだが、そのあたりの不明確さが発令半年足らずで撤廃に至り、水野忠邦本人も辞任に追込まれることにつながってくる。
この撤廃にいたる過程で明らかに中国と異なるのは、土地(領土)のこと。中国では土地はすべて皇帝のものであったが、日本では年貢を支払う義務はあるが土地の実質所有は、農民のものであったということである。
天保の上知令が施行されずに頓挫した最大の原因は、幕閣ナンバーツーになっていた土井利位の、大坂の領地の農民(庄屋など)たちがおこした上知反対闘争による。大坂城代や京都所司代の就任は譜代大名にとって幕閣への昇進コースではあるが、実質は名誉職で国許から連れてきている供侍の滞在費用も自己負担である。つまり宛がわれた所領の年貢から費用を捻出することになるのだが、江戸も中期を過ぎると貨幣経済の時代になり、所領からの年貢も定免制(年貢比率の固定化)が定着して、領主は借金財政にあえいでいた。下総古河藩主土井利位は所領八万石のお殿様であるが、その所領の三割は畿内にあった。
地味が比較的豊かなこの地域では、綿実や菜種など庶民の生活に欠かせない産物が多く、その流通などで生産者に不利な事由が発生すると、これまでも村の有力者や庄屋などの連判による集団示威行動―「国訴」を行ってきていた。大坂町奉行所などに対するこの経済闘争の実績と村々の連携は、「お上」を圧倒する智慧と行動力があった。
六月中旬に古河藩の地元陣屋から「上知」の話を聞いた村役人や百姓代は、衆議の上、要望書を出している。「御永領」と思っていたから、三年分も借金して年貢を前納しているのです。もし上知になるのなら、その前に年貢前納分のすべてを即刻返して欲しい、お願いします。
幕閣ナンバーツーの土井利位でも、無い袖はふれぬ。
武士にも二言はありやとばかり、上知反対派に取り込まれる。
かくして勝算なきとみた忠邦の家臣も、反対派に寝返り、忠邦は失脚、上知令は発令から五ヶ月足らず、閏九月に撤回されることになった。
清代の中国の土地は皇帝のものであったが、戦いに敗れるたびに列強の帝国主義諸国(日本も)に割譲されていった。
中華人民共和国が成立して、中国の領土は中国共産党が指導する政府と国民のものになった。
90年の浦東開発の宣言で、国有地の借地権有償譲渡が認められて今日に至るが、その利権を巡る不純な動きはあとを絶たない。
国の寸土も侵食を認めないとする対外的行為とその国内での対応はどう判断すればいいのか。
自他の歴史から考えることが多い。
(2014年5月15日 記)
夏が近づくと、よく思い出すことがある。
そのひとつは、敗戦詔勅(ラジオ)の数日後のこと。
疎開先の農繁期休暇の繰上げ登校で、「国民学校」の五年生であったわたしたちが先生の指示で一番先にしたのは、教科書を墨で塗りつぶすことであった。たしか“国造り神話”の一節、神の矛先のしずくから“淡路島”が産まれた、とかの話であったように憶えている。この思い出は、わたしのこころにトゲのように突き刺さり、後年入院時に書き綴った詩集のなかの一篇にもなった。
わたしの同世代は、「小学校」を出ていない。
創設されたばかりの「国民学校」の一年に入学、戦時体制下の“ホシガリマセン カツマデハ”と疎開や空襲などのときを過ごして、敗戦後の最後の「国民学校」を卒業した。そのあとは「新制中学」の第一期生として、自前の校舎も無い、“六・三制 野球ばかり 強くなり”の日々を過ごすことになる。
ふたつ目の思い出は、高2の夏、テニス部の合宿のときのこと。
テニス部部長の数学の先生から進学のことを聞かれた。文系の大学受験には数学は不要と信じ込んでいたわたしであったが、それは旧制のはなし、新制大学ではたとえ文系であろうと理数は必修科目と、即刻退部を命じられた。それからは不得意の数学に熱中したが、一期校は見事“サクラチル”、二期校の数学は、いまでも満点と信じ込んでいるが、わたしの人生設計は大きくカーブを切った。この独断と思い込みは、人生のたそがれ、“午後七時の太陽”になったいまも健在のようである。
“七十の手習い”ではじめた古文書の学習にも、この性癖がちらつく。
いまだ判読できない文字も多いが、地方文書(じかたもんじょ)だけでは地元の歴史もつかめないと、四年前から同好の士と『宝塚市史』の輪読会をはじめた。知らないこと、わからないことばかり、それは地元の歴史だけではなく、日本の歴史全体にもつながって、間口は広がり、迷路に入り込んで身動きが取れなくなってきている。
そのひとつに「天保の上知令」があった。
わたしの生まれ育った尼崎市では、上知令(あげちれい、じょうちれい、とも)というとすぐ脳裏に浮かぶのは、明和六年(一七六九)のあの上知令、いまの西宮市、芦屋市、神戸市の東部(兵庫津=神戸港を含む)の豊かな海岸線沿いの尼崎藩領が幕府に召し上げられ、その代替地として播磨の農村地帯があてがわれた。絞油、酒造、海運業など豊かなこの地域の上知は、尼崎藩にとって表向きの石高では測りきれない経済的損失であった。
ところが、である。
念のため、「上知令」を電子辞書などで確認すると、一般的には「天保上知令」を指すらしい(『広辞苑』ほか)。
さてさて、という次第で昨秋書き上げたレポート「“雪の殿様”と天保上知令」(宝塚の古文書を読む会冊子「源右衛門蔵」16号へ寄稿)のことになるのだが、この時代の中国はどうであったのだろうか・・・。
いまユーチューブで中国映画「阿片戦争」(謝晋監督)を見直した。
清国第八代道光帝のとき、イギリスの持ち込む阿片で国の財政が行き詰まり、林則徐にその廃棄処理が命じられる。そうだ、広州での林則徐のあの勇姿を思い出した。一八四〇年四月、イギリス議会は討論の末(花瓶=チャイナが割られ)、9票の差で中国への懲罰戦争が議決される。同六月に出兵、イギリス艦隊は意表をついて広州ではなく天津を攻撃した。清軍の敗北、そして二年後の南京条約の締結・・・このときから中国の「屈辱の百年」がはじまるのでる。
鎖国日本ではあるが、長崎経由で外国の情報は絶えず入ってきていた。
また、イギリス船やロシア船などがそれまでにも来航、文政二年(一八二九)には「異国船打払令」も出されている。
「天保期は気象上からみれば、小氷期にあたっていた。降水は雨でなく、雪になることが比較的多かった」との書き出しではじまるわたしの前述のレポートは、幕閣「ロウジュウ(老中)・シックス」で執行される天保の改革の一断面を描いている。もちろん老中首座は水野忠邦である。他の五人の老中は月番(交代)制ではあるが、大塩平八郎の乱のとき大坂城代であった土井利位(どい・としつら)が京都所司代を経て天保十年(一八三九)幕閣に加わっている。
老中首座について二年目の天保十二年、忠邦は将軍家慶の支持のもと、いわゆる「天保の改革」に乗り出す。ひとつは農村への帰農を促す「人返し令」による殖産振興策、さらに物価の騰貴を抑え、流通経済を促進させる「株仲間の解散」などであった。十余年前の「異国船打払令」を撤回して、外国船に薪や水など必要な物資を与えて穏便に帰す「薪水給与令」を定めたのは、前年の中国における「阿片戦争」への対処であろう。
さらに翌天保十三年、江戸や大坂の十里四方の大名や旗本領(いわゆる私領)の幕府への返上(上知)令は、ホントに首都防衛にまで意識していたのか史料的には明確ではないのだが、そのあたりの不明確さが発令半年足らずで撤廃に至り、水野忠邦本人も辞任に追込まれることにつながってくる。
この撤廃にいたる過程で明らかに中国と異なるのは、土地(領土)のこと。中国では土地はすべて皇帝のものであったが、日本では年貢を支払う義務はあるが土地の実質所有は、農民のものであったということである。
天保の上知令が施行されずに頓挫した最大の原因は、幕閣ナンバーツーになっていた土井利位の、大坂の領地の農民(庄屋など)たちがおこした上知反対闘争による。大坂城代や京都所司代の就任は譜代大名にとって幕閣への昇進コースではあるが、実質は名誉職で国許から連れてきている供侍の滞在費用も自己負担である。つまり宛がわれた所領の年貢から費用を捻出することになるのだが、江戸も中期を過ぎると貨幣経済の時代になり、所領からの年貢も定免制(年貢比率の固定化)が定着して、領主は借金財政にあえいでいた。下総古河藩主土井利位は所領八万石のお殿様であるが、その所領の三割は畿内にあった。
地味が比較的豊かなこの地域では、綿実や菜種など庶民の生活に欠かせない産物が多く、その流通などで生産者に不利な事由が発生すると、これまでも村の有力者や庄屋などの連判による集団示威行動―「国訴」を行ってきていた。大坂町奉行所などに対するこの経済闘争の実績と村々の連携は、「お上」を圧倒する智慧と行動力があった。
六月中旬に古河藩の地元陣屋から「上知」の話を聞いた村役人や百姓代は、衆議の上、要望書を出している。「御永領」と思っていたから、三年分も借金して年貢を前納しているのです。もし上知になるのなら、その前に年貢前納分のすべてを即刻返して欲しい、お願いします。
幕閣ナンバーツーの土井利位でも、無い袖はふれぬ。
武士にも二言はありやとばかり、上知反対派に取り込まれる。
かくして勝算なきとみた忠邦の家臣も、反対派に寝返り、忠邦は失脚、上知令は発令から五ヶ月足らず、閏九月に撤回されることになった。
清代の中国の土地は皇帝のものであったが、戦いに敗れるたびに列強の帝国主義諸国(日本も)に割譲されていった。
中華人民共和国が成立して、中国の領土は中国共産党が指導する政府と国民のものになった。
90年の浦東開発の宣言で、国有地の借地権有償譲渡が認められて今日に至るが、その利権を巡る不純な動きはあとを絶たない。
国の寸土も侵食を認めないとする対外的行為とその国内での対応はどう判断すればいいのか。
自他の歴史から考えることが多い。
(2014年5月15日 記)
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