変わるもの、変わらぬもの
先月三年ぶりに中国へ行ってきた。
20余年前にその設立のお手伝いをした現地企業の社員旅行へのご招待。
話では上海から北京へ行くという。
北京は70年代のはじめの友好商社時代には、駐在員事務所もあり当時同業メーカーを集めて行われた北京商談でその接待も兼ねてひんぱんに往き来した。
80年代以降は、対中投資諮詢の仕事に変わり、そのフィールドの中心が上海など長江下流地域になったため、北京は団体の視察旅行の往来で年1~2度。90年後半からは、西域などへのツアーの通過点としての北京になっていた。
同社の社員旅行は工会(労働組合)と会社の、同額積立金による費用で二年に一度実施されているようだが、なぜか北京はこれまではその対象になっていなかったらしい。
案内を受けて、一瞬北京か、と思ったが、上海からは新幹線で北京に向かうという。これには、まだ乗車したことがない。初物食いもいいところ、よろこんでこのご招待をお受けした。
上海へは一日早く着いて、友人の案内で「表紙の写真」(『徒然中国』84号ご参照)の現場を案内していただいた。空は青く晴れ渡っていた、友人は日本から青空を持ってきてくれた、とわたしを持ち上げてくれたが、そのとき、台風18号は日本の関東北部を襲って、河川は氾濫、周辺の集落に甚大な被害をもたらしていた。そんなこととは露知らず、上海の友人と万博跡地の再開発の現場を視察、来春の関係者を誘っての訪中・視察旅程を相談していた。
翌日はいよいよ北京へ。
虹橋は20数年ぶりか、エアターミナルと新幹線(高速鉄道)に地下鉄が加わって、関空をしのぐ盛況ぶり。100名近い社員も勢ぞろいして、9時発のチェックインを待ちわびている。顔なじみの古参社員や役員と握手を交わし、近情を語り合う。
定刻に発車した列車は、南京に停車したのみ、ときには300キロを超える速度で午後2時には北京南駅に到着した。
上海~南京と天津~北京間には工場や集落は垣間見られたが、そのほかの区間はただ原野を走るのみ、いくつか建設中の小さな駅舎もあったがこれは64年に開通した日本の新幹線と同一視することはできない。名古屋から大阪まで一直線の計画路線が、大物政治家の選挙地盤に駅舎をつくり路線はカーブした。中国の政治家には、選挙地盤はない。あるのは、中央への忠誠心のみ。ただひたすら、北京へと一直線に列車は原野を走り続けていた。
出発前北京在住の友人からのメールによると、パレード効果の“青空”は今回は二日しか持たなかった由であったが、北京南駅の雑踏をかきわけてバスで天壇公園へ向かう徒次、空は立派に!晴れ渡っているではないか。それからの三泊四日の北京は、まさに“日々これ好日”の晴天が続いていた。
第二日目は天安門広場、故宮、そして王府井。64年の初訪中以来の知り尽くしたところではあるが、天安門へは前門近くから地下道へおりてパスポート(中国の人は身分証明書)チェックのあと広場へ。いろんな事件のあったところだから警備の厳しいのもわかるが、老人には階段の上り下りがつらい。
故宮はのっけからグループと離れて、みやげ物店併設の喫茶店で休息することにした。“文革”のころ、そこここの壁という壁に書きなぐられていたスローガンを思い浮かべながら、「故宮」はこの数十年をどう感じているだろうかと、つまらぬことを思いながら時間をつぶしていた。
第三日。ホテルは西駅近くの自称“四星”、ここでも人件費の高騰によるせいか、フロントは二人体制。サービス業の人減らしはどうなんだろうと思いつつ、バスは朝食の弁当を積み込んで一直線にハイウェイを北上する。午前は龍慶峡、午後は八達嶺とか。北京在住二〇年近い日本の友人も、この龍慶峡は知らなかったという。もちろん、わたしははじめてである。上海から随行の旅行社の女副社長は、近来売り出し中のリゾート地で、彼女も会議で一度だけ来たことがある由。二時間近く飛ばして、ここも北京市、の延慶県。江沢民先生揮毫の、大きな岩-「龍慶峡」がわれわれを出迎える。ネットでは、北の“桂林”だとか、三峡の渓谷だとかかまびすしいが、その「ホンモノ」を知っているものにはダム湖のひとつにすぎない。ゴンドラや歩く歩道に誘導され、船着場からライフジャケットを身に着けて、湖面を十数分一周する。深山渓谷の緑はあざやかだが、はてどうだろう・・・水資源の乏しい北方の、保養地か夏の会議地としてなら適地といえるか、どうか。
バスは折り返して、八達嶺へ。
その北側になるのだろうか、ゴンドラがその奥深く登っていくのには驚いた。
北京五輪の前にできたらしいが、わたしはこれもパスして、土産物店をひやかして過ごしていた。下山してきたひとにいくつめの望楼まで行きましたかと尋ねると、登りの一方通行でひとつめの望楼から険しい崖道へと降ろされたと、ほうほうのてい、いやぁ、参りました、とのことであった。
わたしは四十代のはじめには東峰の第三望楼まで攀じ登り、西峰は第二望楼まで行ったこともあるが、下りがタイヘンであった。いまは一方通行で第一望楼から、帰りは脇の崖道を下るとは・・・想像を絶する難コースではないか。
ゴンドラに惑わされてはならない、と記しておく。
最終日の午前は頤和園であった。
ここは六四年の冬と六五年の夏、いずれも取引公司の案内で訪れただけ、半世紀ぶりということになる。西太后の石の軍艦と回廊が記憶の底にあるが、いまは、はるか離れた地点から船に乗って行くという。バス二台の社員全員プラスほかの乗客、合わせて百数十人が乗り合わせて出航。狭い運河から、日清(甲午)戦争の軍費をつぎ込んで西太后の避暑地にと作られた、この人工の池(湖)へと繰り出す。湖上には、観光客満載のおなじような船があふれ、夏の行宮をめざして突き進む。回廊に描かれた絵や物語は、わたしの知るべしも無かったが、一人の30代の父親が子供にいろいろと解説しているのに、安堵の思いがした。この喧騒と人ごみのなかで耳にした父の話を、この少年がいつの日か思い出してくれることであろうと思いつつ・・・。
先日風呂上りにつけたテレビドラマは、四日市市の工場廃水問題にかかわる実話にもとづいていた。わたしはうかつにも四日市の公害は大気汚染とのみ記憶していたが、それ以前にこの工場廃水問題もあったとは!
漁場を奪われた漁船が越境することから、この話がはじまっていた。
海上保安庁の取り締まりに抗議する漁民、われわれを逮捕する前に漁場を奪った―海へ工場廃水を垂れ流している、あの工場をどうしてくれるのだ!
漁民の指摘に、問題の根源を思い知った海上保安庁の出先機関の課長とその部下が、その摘発と立件に立ち上がる。
わたしの知る公害反対闘争ではない、一地方の行政マンとその部下たちの提起した裁判は、最高裁までもつれこむ。この間の二〇年、工場は世論に押されて、汚水対策の決着に追込まれる。初期対策の不備が首を絞めることになった。
このテレビを見ながら、中国の空と日本の青い空のことを考えていた。
ヘドロの川にアユが戻り、スモッグの空がいまの、吸い込まれるような青空に回復したのは、世論の力であり、それに呼応した企業の技術力であった。
上海の蘇州河も、二十数年経って甦った。
中国からPM2・5の大気汚染を追放して、青い空を取り戻すのは、いつになるのか。日本で出来たことが、中国で出来ないことはないであう。
ひとびとは、ただひたすらそれを待ち望んでいる。
(2015年10月14日記)
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