くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

おめでとうございます

2015-12-31 21:36:53 | 四季おりおり
申年ですね



見ざる 聞かざる 言わざる

いやいや 今年は 常識を返上しましょう

ただ いつもの 話好きの方達には

遠慮してもらって

聞き役の方達には

見てもらい 聞いてもらい 言ってもらいましょう

世の中に すこしあたらしい風を 通しましょう

今年は すこしおしゃれをして

胸を張って歩きましょう


徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之九拾参

2015-12-21 18:35:56 | はらだおさむ氏コーナー

三本の映画
― 異なる主題へのアプローチ 



 むかしは、映画制作所もあった宝塚だが、いまは地震のあと再開発された駅前ビルの5Fに、ひとつの独立系シネマがあるのみ。
 ときおりネットで上映情報をさぐっては出かけるのだが、見逃すことも多い。
 中国映画界の、いまや中堅的存在になったジャ・ジャンク―監督の「罪の手ざわり」は上映から一年余が過ぎた今年の夏に気づいたが、もう後の祭り。近在で上映しているところはなかった。
 友人に教えてもらってネットで中国版DVDを見かけたが、十数分ごとにいろんな手順でアプローチを繰り返さねばならず、大枚をはたいて日本語字幕付のものを購入した。まだ一度しか観ていないが、どうまとめればいいか・・・。

 先日予見なしに、このシネピピアでベトナムとの合作映画「ベトナムの風に吹かれて」を観た。
 ベトナムには1976年、第一回ベトナム経済視察団で出かけている。
 南部解放後まだ一年足らずのこのとき、日本はいち早く国交正常化の動きを見せていたが、わたしたちの視察団は、バンコク~ラングーン(当時)~ビエンチャン経由で、ハノイへは東京発五日目で到着した。ハノイは北爆のあとが痛々しく、サイゴン(当時)の港には赤錆びたクルマの残骸が山積みされていた。
90年代初めから半ばにかけての三度の訪越で、その発展ぶりは承知していたが、松坂慶子演じる日本語の教師が痴呆症の母親を日本から呼び寄せて何をしでかすのか・・・。まぁ、こんな感じでチケットを購入した。詳しくはあとで述べるが、これもネタに使えるか・・・という気持ちであった。

 もう一本が公開三日目の昨夜に観た、吉永小百合の「母と暮らせば」である。
 井上ひさしの広島原爆を題材にした戯曲(のち映画化)「父と暮らせば」の遺志を受け継いで、山田洋二監督が脚本も担当(共同)、映画化に取り組んだ「松竹120周年記念映画」。たまさかに開いた雲の隙間から投じられた原爆による長崎の惨事を、その三年後の「戦後」から振り返る・・・その手法。

 昨夜は、午前に購入した予約券を手に、上映30分前シネマに着いた。
 ロビーにある映画関係の書棚を眺めながら、『新藤兼人と映画 著作集2』を手にしてページを繰った。「シナリオ 待ちぼうけの女」の序文というか、「思い出」と題する一文は、「八月十五日を私は宝塚海軍航空隊で迎えた」ではじまっていた。そのはなしは耳にしたことはあったが、こうした手記があることは知らなかった。館内ロビーを見廻しても、コピー機はない。
受付に頼んで、事務室の責任者にその2ページばかりの短文を無料でコピーしてもらった、いまそれをとり出して読んでいる。
 そのころ、わたしは六甲の北の農村に疎開していたが、当時は米軍機のビラ散布で爆撃予告がなされていたらしい。八月十五日は宝塚地区が「爆撃予定日」で、「特別退避令」により「宝塚の穴という穴は兵隊で塞がってしまっていた」「爆撃は正午の予定であった」が、伝令が来て「班長は直ちに本部へ集合せよ」。「天皇の放送であった・・・B29にやられる予定日に終戦になってしまったのだ」
 これはわたしの知らない、「終戦秘話」だ。

 映画がはじまった。
 長崎医科大の階段教室、まさに授業が始まらんとしたとき、ピカッ!ドン。 それから三年後の8月9日の夕暮れ、長崎の高台で助産婦をして暮らす母・伸子(吉永小百合)の前に、医科大生であった息子・浩二(二宮和也)がひょっこり現れる。一瞬、ゾオッとする、ホラーもどきのシーン。それから大晦日まで、折にふれ、なんども現れては、母と思い出話に打ち興じ、フィアンセの結婚を見届けて、母は息子のもとへ身罷れていくのであった。
 戦後七十年を生きてきて、静かな口調で「原爆詩」などを朗読し続ける吉永の、思いのたけをそのままに伝える映画になっている。
  
「ベトナムの風に吹かれて」主演の松坂慶子には、80年代のはじめ、上海のホテルで遭遇している。わたしは仕事仲間と会食中であったが、食堂の向こうのテーブルで商社の駐在員がひとりの女性のサインをもらおうとしていた。仲間に聞くと、アッ、松坂慶子や、と声をあげたが、だれも側へ行ってサインを求めようともしない。彼女は、わたしたちの側を黙って、通り過ぎていった。あとで耳にすると「上海バンスキング」のロケで滞在中であった由だが、無粋なわたしたちのメンバー、とりわけわたしとは無縁のひとであった。彼女主演の映画を観るのは、今回がはじめて。ハノイで日本語の教師をしているひとの原作にもとづく由だが、映画のキャッチフレーズは「若き日に憧れていたあの国で、今、母と生きていく」とある。
 “テンコ盛り”のエピソードのなかで、日本の敗戦後、仏領インドシナでベトナムの解放戦争に参加した日本兵(のち日本へ帰国)と現地女性との間に生まれた男性に会いに行くカメラマンの女性(この日本兵の孫)のはなしもあった。1960年代の、日越友好協会の会合などでは、ディエンビ
エンフーの戦いで活躍したひとたちの話をよく耳にしたが、こんな話がいまでもベトナムで活きているのか・・・。奥田瑛二演じる「ベ平連」OBの、ベトナムへの流浪ばなしが、おもしろい。

 上映を見逃して、DVDでみたジャ・ジャンク―監督の「罪の手ざわり」にふれよう。
わたしはこの監督の作品をデビユー当時から観ていて、これまでにもその「長江哀歌」「四川のうた」などを紹介してきているが、実際おこった四つの事件を描いたこの作品をどう評価すればいいのか、いまだ戸惑っている。
 この映画のオフィシャルサイトは、つぎのように書いている。
 「第66回カンヌ国際映画祭脚本賞受賞!
実在の事件を基に描かれる、パワフルかつセンセーショナルな人間ドラマ村の共同所有だった炭鉱の利益が実業家に独占されたことに怒った山西省の男、妻と子に出稼ぎだと偽って強盗を繰り返す重慶の男、客からセクハラを受ける湖北省の女、ナイトクラブのダンサーとの恋に苦悩する広東省の男―。彼らが起こす驚愕の結末とは?ごく普通の人びとである彼らはなぜ罪に触れてしまったのか?」
来日した監督は、つぎのようにも述べている。
「現在、中国は急速に発展しており、以前よりもずっと裕福に見えます。しかしながら、多くの人びとは、全土に広がる富の不平等、そして大幅な貧富の格差に起因する人格の危機に直面しています」「この映画で私は、自分たちの社会は果たして発展しているのだろうか、という問いを投げかけたいと思います」そして、「四人の登場人物たちの置かれている状況や環境が昔からの武侠の世界によく似ているなと思い、武侠ものの視点で現代を撮るとどうなるかということが今回のアイデアの発端でもあった」と付け加えている。

この映画は中国国内で上映許可
は取れていたが、なぜか公開直前にDVDが市場に出て、上映中止になった由。9月訪中時に友人に頼んで探してもらったが、上海にも北京にもそのDVDは見当たらなかった。北京の友人は、ネットで一時見れたが、いまは見れないという。どうなったのだろうか?
この映画の原題は『天注定』、日本発売のDVDのケース裏面には「この世の定めか、あゝ無常―」と大書されている。

三本の映画、それぞれの視点は異なるが、さて、いかがだったでしょうか。

(2015年12月15日記)



佐川美術館

2015-12-14 17:33:10 | 四季おりおり
佐川美術館に出かけた



今回は、茶枯れた葦の風情を茶室から見たい

茶室から座って眺める水面と畳面との同位置からの風情は格別のものだった

そしてめずしく風もない晴天で奥比叡の山がみわたせて

水面に映る日のゆらめきがなんとも気持ちよかった

青い葦もいいが、冬枯れの葦もいいもの

写真はNG


そして 美術館では

恒例の「さがわきっずみゅーじあむ」 2016年1月11日まで開催
 (すべて絵なのですが、写真のようにトリックアートの世界)
 
 


















大人も子供も楽しめる作品でした






12月ですね

2015-12-12 22:04:40 | 四季おりおり
行事に追われているうちに12月
月日の過ぎ去るのは、はやい
自分の年を考える暇もない

さて 今年の紅葉

箕面の勝尾寺







日本民家集落博物館  秋山の民家





服部の霊園のメタセコイア



滋賀県の西教寺


明智光秀の一族のお墓
  







寺内にはこんなかわいらしい念仏小僧
  

















徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之九拾弐

2015-11-25 13:44:07 | はらだおさむ氏コーナー
夜 明 け 前

 週をはさんでふたりの友人のお別れ会があった。
 三戸俊英公認会計士(享年64歳)と三和化研工業㈱の創業者であり、上海三和医療機器有限公司の元菫事長・岡田禮一(享年81歳)さんのおふたりである。中国経済の改革開放の前夜からともに汗を流してきた「戦友」であり、文字どおりの「同志」であった。

 72年の日中国交正常化以後、日本の地方自治体と中国の都市との友好交流が深まっていった。大阪市は74年に上海市と友好都市協定を締結、大阪府80年に同じく上海市と締結した。この間わたしの所属する大阪府日中友好協会が仲介して、“友好の船”や“友好の翼”で多くのひとたちが中国を訪れ、交流を深めてきていた。
 82年6月、“友好貿易”から“対中投資諮詢”に転じたわたしは、上海市人民政府外事弁公室傘下の上海市対外友好協会日本処を窓口に、訪中団の派遣と中国マーケットの調査に取り組んだ。『上海経済交流』誌によると、訪中団の派遣は83年5団(39名)、84年8団(60名)、85年21団(206名)、86年9団(74名)と4年間で43団(379名)にのぼっている。
 同誌創刊号(85年8月)をみると、84年1月に締結した日系製造業合弁契約第一号の「紅麻レース」の研修生20名の来日、嘉定県経済代表団来日(7月31日)や連雲港経済開発公司との合作協議書の締結などの記事にあわせて花果山サントリービールの紹介も掲載されている。
 同誌第二号(85年10月)のトップに「上海の市街地再開発―<友好改造区>構想」の記事があり、同年2月に上海市の担当副市長に提案したこの計画を大阪商工会議所で紹介・披露した講演会の模様が報じられている。またその「上海経済区都市めぐり②」には上海市嘉定県の紹介があり、5月には八尾商工会議所友好訪中団が訪問、9月末から山脇市長を団長とする八尾市・議会友好代表団の訪中が告げられている。その誌面には岡田禮一さんとわたしを含む団員のスナップ写真も載っている。
 あの事件が発生した89年6月発行の同誌16号に、わたしは「草の根の経済交流」と題した一文で「上海三和」設立のいきさつをつぎのように紹介している。
 「数年前から始められていた八尾日中の友好訪中団に参加されていた三和化研工業の岡田社長が、嘉定県の衛星中心等に寄贈されていた同社の床ずれ治療マットの臨床結果がきっかけとなって、85年9月、同県から合弁の申し入れがあり」紆余曲折を経て、87年12月「研究開発と外注管理、組み立て、販売を主体とする従業員16名(内日本人2名)の合弁企業が開業した」

 この同じ号に三戸俊英公認会計士の「渉外税法知識」の連載がはじまっている。
 わたしが三戸先生にはじめてお目にかかったのは、86年9月上海で開催された「第2回大阪・上海経済交流会議」への参加打合わせの会合であった。上海では西尾名誉団長(大阪市筆頭助役=当時)のアテンドなどで多忙を極め、三戸先生とお話しする機会も無かったが、団がアモイから広州・香港への視察に移動した旅の折々にこれからの日中経済交流に専門家の参加が求められるとお話して、帰国後、協会の「合弁企業経営管理研究会」に参加していただいた。隔月に開催されていたこの研究会には、在阪の日系合弁企業の実務担当者と高橋正樹弁護士ほか専門家が参加され、合弁企業の実務上の諸問題をQ&A方式で勉強していた。のちに近藤友良公認会計士にもご参加いただき、三戸・近藤両先生の翻訳による『中国渉外税法知識』が88年2月、当協会から出版されている。

 わたしがはじめて嘉定県を訪れたのは83年の春と記憶するが、日本の都市計画・建築の専門家と嘉定県城の孔子廟などをふくむ街並みの整備と保存を同県の専門家と協議する会議・視察のアテンドであった。そのときは、市内のホテルに宿泊、クルマに分乗しての“嘉定”通いであったが、道路事情が悪く片道2時間近くを要し、着いてしばらくすると昼食・休憩、午後2時間ほどの会議や視察で帰路につくというありさまであった。往復の都度、馬陸郷人民政府の前を通る。人民政府の看板の横に「上海-大阪友好人民公社」の看板が架かっているのが気になった。上海から随行の人にお伺いすると、大阪府との友好提携後、地元から大阪へ農業研修生が数次派遣され、大阪からも専門家が来てニンニクとしいたけの生産で有名な同県の農作物の多角化を図る交流が続いている、その記念碑の由であった。すでに“文革”も過去の話となり、全中国で唯一残る「人民公社」であったが、日本からの進出企業はまだなかった。

 89年のあの事件のあと、スワトウでの合作企業の設立、90年の「浦東開発宣言」後の「土地使用権の有償譲渡」にからむセミナーの開催など、なにかと忙しい日々が続いたが、中国をその周辺諸国・地域から眺めたいとの思いも募り、三戸先生ほかの友人知人を誘って、韓国、台湾、極東ロシア、ベトナムなどを2~3年かけて視察に出かけた。
 89年秋、ソウルでは現地経済研究所や経済団体と懇談、まだ中国とは国交は開かれていなかったが香港経由の輸出入は行われていた(6月の事件後、広東省の各地には韓国企業の視察グループが群れをなしていた)。
 翌90年9月、台湾へ。交流協会を尋ね、ヒアリングのあと高雄の輸出加工区の日系企業2社を訪問。人件費の高騰で大陸への進出ムードが高い。
 91年9月、ハバロフスクから新潟空港に降り立ったとき、マスコミに取り囲まれた。ゴルバチョフが軟禁された由だが、現地の状況は?ソ連邦崩壊の前兆だが、時差がありわたしたちが飛び立った後のこと。このときはウラジオストク開放第一号の旅行団で、メンバーの半数は墓参目的。おかげでイルクーツクの奥のギリシャ正教墓地まで参観できたが、ソ連の経済は崩壊していて宿泊も食事も貧しく、各地に中国からのスーツケースマーチャントがあふれていた。ラムール河のほとりでドルを求めるひとから買い求めた油絵の小品は、いまもわたしの部屋に架かっている。

 89年のあの事件で、瞬間的に頓挫した訪中団も90年12団(63名)、91年10団(80名)と復活、92年10月には協会設立10周年記念パネルディスカッションを、三名のパネリスト(中国進出企業代表)を招いて開催している。コーディネーターは高橋弁護士と三戸公認会計士のおふたり、出席者は100名を超え、第2次中国投資ブームを予感させる動きであった。
 92年春 小平の“南巡講話”と同年秋の天皇訪中で、対中投資ブームにふたたび火がついた。

 三戸先生は2000年、村尾弁護士と上海にキャストコンサルを設立して常駐、「上海三和」は“「党営」企業”から“民営独資企業”に脱皮して、新工場へ移転する。
 それから十数年、バトンは次の世代に引き継がれた。

― ○ ―

 「木曽路はすべて山の中である」の書き出しではじまる島崎藤村の『夜明け前』は、明治維新をはさんで変貌する木曽山中三十余年の顛末を描いた大河小説であるが、その最後は、主人公半蔵の寝棺の穴を掘る鍬の音の描写で終わる。「一つの音の後には、また他の音が続いた」

日本は、明治維新のあと「脱亜入欧」の路線を歩み、国を滅ぼした。
中国は文革終結に際し、小平が毛沢東を「功績第一 誤り第二」と評したが、中国のいまの紙幣には彼の肖像しかない。この「毛沢東」は、これからの中国の行方を、どうみているのだろうか・・・。
                   (2015年11月22日記)

椎葉神楽の公演

2015-11-23 00:31:03 | 日本民家集落博物館ボランティアの日々
椎葉神楽の公演が椎葉の民家でありました
今回は大河内神楽の保存会の皆様です
いつもボランティアで囲炉裏番をしている客間の囲炉裏も閉じられ
今日は神棚がまつられ、部屋の中央には御幣が飾られていて
そこで神楽の奉納です

椎葉のアイドル 鶴富姫こと おつるちゃん


公演を待つ来館者   部屋の割り付け
  

そして神楽の奉納
剣の手(つるぎのて)
  

椎葉民家の庭先でも
 

椎葉の民謡も唄われました


戸取り(ととり)
天岩戸の神楽で手力男命(たじからのみこと)が天岩戸を開けるというストーリーの演目で
見事に岩戸を投げ飛ばした


最後に大神神楽(だいじんかぐら)
  

    

    

  

  

今年の神楽奉納はめでたく終り



行 事

2015-11-16 16:38:00 | 日本民家集落博物館ボランティアの日々

椎葉神楽公演


 日 時 11月22日(日) 13時30分~15時30分
 ところ 日向椎葉の民家
 協 力 椎葉村 椎葉村観光協会




   




◆茶室公開と茶会
  

 日 時 : 11月21日(土) 13:00 ~ 15:00

 ところ : 北河内の茶室

 費 用 : お菓子代 300円

 定 員 : 30名




◆こま遊び  
 
  
  日 時 : 10月 3日~ 12月 5日までの各土曜日(雨天中止) 13:30 ~ 15:30

  ところ : 日向椎葉の民家前広場




◆ 石臼体験  
   
 
  石臼で大豆をひいて、きなこを作ります

 

  日 時 : 10月 4日~ 12月13日までの各日曜日(第4・5週を除く) 13:30 ~ 15:30

  ところ : 石臼体験コーナー

  材料費 : 100円





お問合せ  📞 06-6862-3137

能面・狂言面展 無事終了しました

2015-11-16 10:32:36 | 日本民家集落博物館ボランティアの日々
11月1日から15日まで 堂島の米蔵で展示させていただいた能面・狂言面の展示が

無事終了できました

今年も大勢の皆様にご覧いただき感謝いたしております





    

  

NHKラジオ深夜便

2015-11-13 16:09:58 | 四季おりおり
11月10日の深夜
寝そびれて深夜の3時にNHKラジオ深夜便を聞いていた
この時間は、懐かしい歌の数々が流れて来る・・・・・くらいの知識しかなかった私
でも 歌声は心にしみて
その当時を髣髴と思い出させてくれる

さて 11月10日 

 高倉 健さま 森繁久彌さま の命日でした

ベッドに横たわったままで 耳を傾けて聞くなつかしい歌


唐獅子牡丹 網走番外地 時代遅れの酒場 望郷子守歌


高倉 健さま の姿  立ち居振る舞い  あの横顔
中国雲南省から昆明へ旅をした折のガイドさんの 尊敬と憧れの言葉

信州の山小屋の女あるじからの、私生活のはなし

思い出せていただきました




そして 森繁久彌さまの 知床旅情

あの語り掛けてくるせりふを読むごとく歌う歌声

(当日は 森光子さま の命日でもありました)


寝そびれてみるものも、いいものかもね~


徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之九拾壱

2015-10-25 21:13:37 | はらだおさむ氏コーナー

大(だい) 地(ち) 讃(さん) 頌(しょう)

 昨年からはじめたコーラスで、いま「大地讃頌」(大木淳夫作詞/佐藤 真作曲)をうたっている。
 ♪母なる大地のふところに/われら人の子の喜びはある・・・から、はじまるこのうたは、その詞もよいが、メロディにこころがえぐられる。
 ♪平和な大地を/静かな大地を/大地をほめよ たたえよ土を・・・と歌い上げ、最後は♪母なる大地を ああ/たたえよ大地を ああ♪と絶唱!
 このうたは“混声合唱とオーケストラのためのカンタータ「土の歌」”の最終楽章の由。もう半世紀以上も前、岩城宏之指揮・NHK交響楽団・東京混声合唱団の初演以来歌い継がれ、阪神淡路大震災の直後に小澤征爾の指揮で演奏されてからこのかた、特にこの「大地讃頌」は被災各地で歌われて、被災者のこころを癒し、励まし続けてきている。

 十年ほど前、学友たちと出雲路を訪ねた。
 このときは東京から飛来したものや広島からクルマで馳せ参じたものもいたが、この数年、もう集う機会もなくなった。
 宍道湖のほとりを巡り、出雲大社で日本の古代史の一端を思い浮かべながら、車を連ねてその周辺をまわったが、休耕田の多いのにはおどろいた。
観光客相手の店でこそ活気はあるが、ひとの往来にいきおいがない。かねてこの地の過疎ぶりは耳にしていたが、元首相の没後は拍車をかけている由。
 帰路 わたしはひとり鉄路で岡山へ出た。
 やまなみは深く、緑滴るが、間伐材は朽ちるにまかせて谷を埋めている。
 むかしむかしの、そのむかし。
 半島などからの渡来人が、この周辺で鉱脈を見つけ、農具や刀剣の製造技術を伝授したとのことを、なにかの本で読んだような気もするが、その後の歴史はどうであったか・・・。
 倉敷は明るく、ひとがたおやかに歩いていた。

 はなしはとぶが、土地といえば、あのときの上海を思い出す。
 あの事件の翌年四月、李鵬総理は上海で「浦東開発宣言」をした。
 中華人民共和国が成立して以後、中国の土地は国有と農村の集団所有のふたつのみで、私有の土地はただの一坪もなかった。
 このときの開発宣言では、上海の浦東地区の土地のみが対象の有償譲渡(期限付)・・・日本風に解釈すれば「借地権」の売買が認められたのであるが、その後しばらくして他の四つの対外開放地区(深圳・スワトウ・珠海・アモイ)にも適用され、やがて全土に広がっていった。「土一升」が「金の卵を産む鶏」になって、先ずは「地方政府」にカネが転げ込み、それが倍々ゲームでひろがって「汚職」と「成金」が幾何学的に増えあがる。

 この「土地使用権の有償譲渡」というアイデアはどこから生まれたのか。
 わたしは英領香港(当時)の土地使用権の売買が、そのヒントになったのではないかと推察している。阿片戦争で取得した香港の、女王様の土地租借権(100年)の運用がそれである。
 あの事件から一年足らずで、このような政策の大転換が実務的裏づけもなしに実施されることはありえない。
この構想は、いつ、どこから出てきたのか。
わたしは、汪道涵市長時代(1980~85)にその萌芽を見つけ出すことが出来るのではないかと・・・市長のスタッフにその「智慧袋」がいた筈である。
 文化大革命が終結して「改革開放」の道をあゆみはじめたそのころ、上海市の財政も苦しかったが、鐚(ビタ)一文手元に残させずに中央に吸い上げられていて、施政当事者は頭を抱えていた。困迫の度を深めていた住宅や交通問題などをどう処理せよというのか、と・・・。
 あとになって知ったのだが、上海はそのとき、中央に「内緒(密々)」で浦東(農村地区)にいくつかの「工業区」を設けて、「都会戸籍」の労働者を移しはじめていた。中央へはその「改造計画」を上申し続けていたが、すべて却下された末の「苦肉の策」であったと、消息筋から耳にしたことがある。
 その「改造計画」が、あの事件のあと「陽の目」をみて、「浦東開発宣言」に結びついた「筈」である。時間はかかったが「ニワトリ」はついに大きな「金のタマゴ」を産んでくれた・・・いま、上海のバンドの両側に立ち並ぶ高層ビルを見ながら、わたしは汪道涵市長とそのスタッフに脱帽する。そして90年代のはじめ、市政改革に辣腕をふるった朱鎔基市長(のち国務院総理)に敬意を覚える。

 そのあと、上海の改造で私服を肥やしたひとも少なくはないが、歴史はいつの日かそのことを明らかにすることであろう。
 中国の大地からいま聞こえてくるのは、すすり泣きか、高笑いか・・・。

 ♪母なる大地を ああ/たたえよ大地を ああ♪

                                     (2015年10月27日記)