九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

武功夜話には出てこない話  良峯清風と良岑晨直(ときなお) さらに・・・ 尾張大海の娘

2020-10-25 | 佐々氏 バラバラ情報

良峯安世のご子息方
木蓮(よしみね の いたび)、長松(よしみね の ながまつ)、清風(よしみね の きよかぜ)、宗貞(遍昭)、高行、遠視、晨直、晨省、晨茂、行振

良岑 清風の母は丹治氏娘

良岑 衆樹(よしみね の もろき)の妻は丹波氏または丹治氏娘
息は良岑 義方(よしみね の よしかた)


遍昭の母親は不詳だそうだが、一説には光孝天皇の乳母ともいわれている。
900年代には円融天皇乳母――良峯美子という人物も現れていることから、良峯姓が乳母の系であったことの証ともなるかもしれない。
「少将乳母良峯美子」

乳母、尾張、と言えば思い出されるのが海部氏 素晴らしいページを見つけた。

http://www.honnet.jp/metro/kodaishi/k306/kodaishi306.pdf

「大海人皇子(後の天武天皇)の乳母は、尾張郡海部郷の首長尾張大海の娘で、大海人は幼少の頃ここで育てられた。
彼は壬申の乱で吉野を脱出し伊勢へと抜け出た際、尾張氏の一族の助けを受けた
乳兄弟の尾張大隅は傘下の鍛冶伊福部を派遣して、大海人の本拠美濃での刀槍の生産に協力し、皇子は美濃・尾張の兵を主力として、不破の関を越えて瀬田の唐橋を目指し、勝敗を決する戦いを挑んだのである。」とある。

そこで尾張国海部郷で、しかも良峯か丹羽に関係する場所を荘園DBで調べると、なんと出てきたのが「江南」前野氏の居住地でもあった。
http://www.konan-kankou.jp/kankouannnai/s13/

さらにここでは伊福部が尾張にもある事を知った。鍛冶、刀槍の生産!



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武功夜話には出てこない話  良峯宗貞の容姿際立って美しく… 深草少将だったのだろうか???

2020-10-23 | 佐々氏 バラバラ情報

桓武天皇ー良峯安世ー良峰宗貞(遍昭)-素性法師(玄利

宗貞=僧正遍昭 (新古今和歌集の部屋さんページより)
https://blog.goo.ne.jp/jikan314/e/058afb516f12e3562ce6f80e3f2d4a78





元慶寺 「僧正遍照」とても詳しく載っております!(かげまるくん行状集記 さんのぺーじより)
http://www.kagemarukun.fromc.jp/page024i.html

https://books.google.co.jp/books?id=qfp3ewGC0TMC&pg=PA124&dq=%E8%89%AF%E5%B3%B0%E5%AE%97%E8%B2%9E&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwi8i4_93MrsAhWXBIgKHZhwBdEQ6AEwAXoECAEQAg#v=onepage&q=%E8%89%AF%E5%B3%B0%E5%AE%97%E8%B2%9E&f=false

https://rekishi-style.com/archives/952



大英国博物館所蔵(British Museum) ↓ 二つの画像




素性法師
https://www.britishmuseum.org/collection/search?agent=Sosei%20Hoshi%20%28%E7%B4%A0%E6%80%A7%E6%B3%95%E5%B8%AB%29


Okada Shuntosai (岡田春燈斉)の(銅版画?)もBritish Museumある。




===*===

円仁
円仁は壬生姓のようである。系図あり
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/24/kiyo0024-02.pdf

http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%B8%AD%E3%83%BB%E6%9C%AB%E6%9C%9F%E4%BB%A5%E9%99%8D%E3%81%AE%E4%B8%B9%E7%BE%BD%E9%83%A1%E3%80%80%E8%89%AF%E5%B3%AF%E5%AE%B6%E3%80%85%E7%B3%BB%E5%9B%B3%E3%82%92%E9%80%9A%E3%81%97%E3%81%A6.html

「玄理の父 宗貞は、「嘉祥3(850)年出家 36歳 法名 遍照。元慶3(879)年 権僧正 65歳。
仁和元(885)年11月23日元慶寺座主カ 花山僧正と号す。
寛平2(890)年正月19日 入滅 74歳。
慈覚大師(円仁 第3代天台座主)の弟子 安然和尚と称し、天台座主長老師。」と系図上には記述あり。

しかし、「五大院安然尊者と密教 木内 央氏」によれば、遍照と安然和尚とは別人物であるようです。
安然は、慈覚大師(円仁)の門流であり、対立する円珍流に対して、遍照は、第3極の僧正であったという。詳しくは、下記 URLにて参照されたい。
               ( https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_755/_pdf )
更に、(今昔物語19 「頭少将良峯宗貞出家語」には、宗貞は、出家前に男子1人・女子1人を産ませたる。と。また、「本朝皇胤紹運録」には、宗貞には、2人の息子(素性・由性)がいたと記載されている。
*素性の幼名は、玄利はるとし と呼ばれていた。」という。
とすれば、良峯家系図の宗貞の次男 玄理は、素性の幼名と重なり、由性であるべき所が、そのように誤って記載されたのであろうか。


利と理は、同じく「り」と読めるので、私的には問題がないようにも思えるのだが…


また、昨日見つけた尾張に関する記載に「鳴海」とでていた。これは良峯が持っていた「成海荘」の事だったかもしれず、調べる必要があるかと思った。
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武功夜話 気になる登場人物memo (15) 佐々成政に関する記事をピックアップ 第三巻より

2020-10-21 | 佐々氏 バラバラ情報

p.29
家伝記。前野喜左衛門義康日次記に記す前野小兵衛勝長の事、佐々蔵助成政進退の事

一、付けたりの事
家伝記によるところ、遠州浜松御城徳川殿との御就談の趣は、これは喜左衛門(前野義康)日次記併せ、越中よりの前野小兵衛尉(前野勝長)、佐々平左衛門の顛末は、親亀斎(小坂雄善)申し語り候事と多少相違ありそのままに誌し置く

一、喜左衛門日次記に言う、御舎弟前野小兵衛尉当夜申し語り候事。
御舎弟小兵衛殿、平左殿を相伴い越し候は、師走(一文字の方)三十日酉の四ッ頃、浜松において徳川殿直談の事あり。すなわち佐々蔵助殿の和議承服仕らず、家康公と北越の固め等閑(なおざり)にならず、押して筑前守退治の旨取り付け、陽春を待ち呼応蜂起の由に候。

…(略)

===*===

九里は越中国新川郡にも、砺波(利波)にもいた。前野氏と同じくである。そこで闘った残党であったのではないだろうか。
前野小兵衛は新川郡で討死した。

===*===
p.43
越中国利波城主 前野小兵衛勝長伝の事 佐々蔵助成政の事

一、前野小兵衛尉は、真野江小兵衛宗康の三男なり。小さくして尾州比良の城主、佐々蔵助成政に奉仕、蔵助殿に相随い越中へ入国、蔵助殿越中の守護に任ぜられ時、」小兵衛尉は利波郡において一万五千石賜り利波城主と為る。小兵衛尉の妻女は佐々平左衛門の妹なり、平左衛門と共に佐々蔵助殿の股肱の長臣、蔵助殿に相随い転戦その功名は勝数えうべからずなり。前野加賀守と成る。長子又五郎という吉康の事、親に劣らず豪勇並びに北越の勇将なり。次第嘉兵衛という、甲申(天正十二年)師走佐々蔵助一行の者三十有余騎尾州へ罷り下り候の時、親小兵衛と共に雇従、在所前野村に罷り来る。…略…

===*===

此の小兵衛の系こそ、二度も九里に養子に入って下さった系なのである。
一度目は又五郎の吉康の息 十助 で、佐々蔵助成政に仕えている。

二度目は大和宇陀松山藩の時代に十助の弟直勝孫宗明(佐々宗淳の実兄)のさらに曾孫が九里修政である。
直勝を一代目とすると六代目となる。

この前野氏が九里に二度も養子に入ってきたという事。そして前野氏は永田氏とも養子縁組を行っている事…等考えるに、九里の先祖蓮忍・常忍が【良峯姓原氏】と関係があった事は、あながち間違いでもないと思うのだ。

前野小兵衛勝長の裔は佐々を名乗っているが、前野氏である。
勝長の妻が佐々蔵助成政の姉でもあることと、佐々氏に息がいなかった事で、佐々氏を名乗るようになったのだと思う。

===*===

佐々成政周辺は、この後どんどん戦渦に巻き込まれ、討死していく。合掌


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武功夜話 気になる登場人物memo (14) 佐々蔵助成政に関することをピックアップ

2020-10-20 | 佐々氏 バラバラ情報

佐々成政、徳川家康公と談合子細の事

一、此度佐々蔵助殿越中より路次深雪路を越え、尾州に罷り来たる真意は、北畠信雄卿、羽柴と和睦を心好しとなさず、先に遠州の徳川家康公を誘い共に与力、筑前を挟み討ちに致し退治為るべく直談に及び候なり。その時恰も信雄卿御礼のために参上の路次三州岡崎に罷り在り候の時、松平主殿より越中の佐々蔵助浜松へ罷り下り、家康公に拝謁を願い出で候を承り、我等類縁の者同道候由申し聞かされ、このまま浜松へ罷り候哉仲々に六ッヶ敷儀もこれあるに付き一考あって然るべきと申し諭され・・・・(略)…案の如く信雄卿、佐々蔵助をお避けなされ、…佐々蔵助と面談もこれなく、ご帰国の次第。久三郎殿申し語り候なり。
しからば当家に罷り越し候佐々平左衛門、御伯父小兵衛尉殿一様に申す様、すなわち此度の和議の条々は筑前の手の内なり。主人蔵助清須へ参上の本意は、前の和議条々反故と致し、再度兵馬を催し羽柴筑前討たずんば、いよいよ増長して君臣の義は廃れ、上下その処を替え先に至り彼の筑前に馬を繋ぐの辱めを免れずなり。…(略)

・・・・・

去りながら浜松において、徳川家康公に蔵助相談申し上げ候ところ、この場合は時節なれば来春まで南方表の様体相窺い、今は信雄卿の子細もこれあり。それがしは信雄卿の御意に任せ居り候。…

===*===

まだまだ続く、が、家康の思慮深さがチラリと感じられるような気がした。機を見るという事の難しさ・・・・私は佐々成政に近く「思ったが吉日」タイプ。危ない。

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武功夜話 気になる登場人物memo (13) 佐々成政に関する記事をピックアップ 第三巻より

2020-10-20 | 佐々氏 バラバラ情報

九里氏との接点が出てきそうな気配。
…と言っても、武功夜話はなかなか進まない。ノンフィクション映画のように、いろいろな人にその時の状況をインタビューし、丁寧に書いている感じの文書。

さて、今日は武功夜話の始りの著者でもあった「雄善」が書いた南窓庵記の写しからご紹介していこう。

その前に予備知識として↓ どうぞ!
https://www.city.konan.lg.jp/kurashi/kankou/1004828/1004071/1004080.html

武功夜話 三巻 前野家文書 吉田蒼生雄 全訳 新人物往来社
p.25
天正十二年 十二月三十日 佐々蔵助成政清須城へ参上の事
一、天正甲申師走三十日、越中の佐々蔵助清須へ罷り参ずる。時に当年の歳卒煩衰の内すでに暮れなんとす、歳晩勿勿として期日を残すのみ、ここに遠来の客を迎うるなり。当家に止宿候者・・・・・(中略)

一、佐々蔵助殿主従一行の者は三十有余人、蔵助殿は郡村の生駒八右衛門所に立ち寄り、清須へ罷り越し、信雄卿に御拝謁候由。伯父(前野勝長)御殿併せ平左衛門殿、八右衛門より当家へ罷り越し候は三十日辰の刻五ッ半頃合いに候なり。
右事情南窓庵記に記すところあり、孫四郎写し置く者なり。

一、佐々蔵助主従の者三十有余人、郡村の生駒八右衛門方へ罷り候は天正甲申晦日の事、直談の趣曲折あり、すなわち蔵助殿心猛く語気強く、一言にして肺腑を貫くなり。八右殿しばし辟易、やむなく清須へ御供罷り越し候なり。それがし案ずるに、遥々家居を出て越・信の剣山雪峰千里を相越え誰がために来る哉、しからば弱主の禍を相除くため、寒天に暖を囲む遑(いとま)非ず、北風骨を貫き粗衣の粉雪を払って故地を彷徨す。やんぬる哉和議すでに成る、孤主を助けて再起を計ると□も機を失う是非なき事に候。上郡東西在郷諸村の万戸、門毎に松を植え竹梅を飾り新春を迎うるの風情たれば、佐々蔵助一片の忠節相容れる所の隙無きなり。盛衰極り無き時勢を慨嘆太息して越山へ還る。時に歳改まって天正乙酉(十三年)正月三日の事。伯父御殿(前野勝長)、平左殿(佐々平左衛門)屋敷に相留る事四日。南窓庵写し。

===*===

雄善の描写は素晴らしい! 生き生きしていて、面白い!
佐々成政の様子、生駒八衛右門の困っている様子、シーンが目の前に浮かんでくるようではないか!
しかも成政の心の内まで読み取って…

このように心の内部にまで迫っている書、であることが嬉しい。

起こった出来事と、内に隠されていた気持ち、は、通常の文書だけでは見えてこない部分も多々あると思う。
どのような気持ちで書いた文書であったのかまでは、なかなかわからない。

武功夜話では、雄善の見たところ、感じたところとなってしまうが、そこが通じてくる。





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武功夜話 気になる登場人物memo (12)前野但馬守長康 

2020-10-19 | 佐々氏 バラバラ情報

息である前野出雲守景康の結婚の儀の後、十月には長康は朝鮮出兵に駆り出され三千人の家来たちを纏め名護屋城へ赴き朝鮮へ渡り戦っている。
その戦いの後、但馬国出石へ帰国する。

こんなにも働き者で、かつ真っ直ぐに生きてきた長康であったが切腹に追い込まれてしまう。
武功夜話にとって中心人物かともいえる長康のこの最後。
輝かしい活躍とともにこの最後を世に留めておきたいと思って書かれている部分もあると思う。

wikipedia前野景定

「羽柴秀吉(豊臣秀吉)の重臣・前野長康の子として生まれる。父と共に豊臣秀次付の家老となって秀次を支えた。しかし文禄4年(1595年)、秀次事件で秀次を弁護したことにより、豊臣秀吉から秀次与党として謀反連座の疑いで父と共に捕らえられ、中村一氏に預けられた。そして、父と共にそこで秀吉の命令により切腹した。

なお景定の妻・御長(おちょう)にも捕縛命令が出された。彼女は細川忠興の長女であったため、慌てた細川家では、重臣の松井康之などが奔走し、景定から離縁出家させて、ようやく捕縛を免れたという。」



前野但馬守長康御仕舞の事
一、五宗記なる書付は、甲午歳霜月の頃合いをもって畢(おわる)、前但様御腹召され候の子細は清助殿より申し承るのみ。
乙未歳(文禄四年)関白秀次公謀反ある科により、紀州高野山において御自害候いてより三十有余日後の事、伏見の自邸において相果てられ候なり。
すなわちこれは御嫡男子出雲守景定様、関白殿下へ忠節の顕のため、誓紙に連判候事露顕候に手より、中村式部少輔の伏見屋敷において死を賜るなり。御後見役但馬守様は、後見役怠り無く度々の御讒言も取り成しされ候事明白なれば、格別の御咎めも相無くも、躮出雲守様の不首尾は太閤殿下へ申訳も立たず、御領地はすべて返上、伏見邸において切腹相果てられ候なり。まことに傷ましき事に候なり。

家来衆は処々へ離散、前野家は改易と相成るなり。時に伏見邸に罷り在り候者は,それがし(前野義詮)と石崎庄兵衛、上坂勘解由、厩四郎兵衛、森伊勢守(雄成)、前野三太夫(宗高)、前野兵庫介(忠康)等数名計り罷り残り、斯くなる上は何処までも御伴仕らんと各々覚悟定め候ところ、前但様これを許さず、一同に言い含め候事、すなわち余はすでに老年この地において相果てるとも未練心更に相無し、一子出雲守すでに了る、徒らに長らえ候とも天下のそしりを免れず、言い置く事も更に相無しと申され、十九日酉四ッ刻潔く御仕舞なされ候。…

武功夜話110のページより 
http://www.homenews.jp/bukouyowa/bukouyowa_no110.html
【秀次公に同心謀反、「連座によって即日死を賜う」の諚であった。中村式部家臣使者、石川左兵衛殿より、長康の家臣で甥の前野清助にも連絡が入った。清助ら家臣は「神妙に控えあるよう」との命令で、一同御主人(長康)の一身を案じていた。かねてより覚悟はしていたものの父子共に切腹の御上意とは無念の仕打ち。太閤殿下若き頃よりその下で粉骨の忠節を尽くしてきたことを思い返せば、無念の思い際限なし。一同、御主人の面影を惜しみ明け方を待ちわび、中村式部殿の屋敷に到着した。中村式部殿も突然の出来事に哀れみをもって内輪衆に通告し、取り計っていた。前野清助、石崎丈左衛門、上坂勘解由、森伊勢、前野兵太夫、前野伝左衛門の六人が集まったところ、門前のかがり火、松明は赤々と燃え盛り、藤堂殿の御家中の警固はおよそ五、六十人いた。厳重な構えで近寄りがたかった。六人は藤堂家の御家来衆頭と覚しき人に長康の家臣であることを告げたが、まかりならずとの御達しだった。やむを得ず神妙に控えていたところ、御用人石川左兵衛が出てきて「前野殿父子は御腹召され候」と告げ、「貴殿ら直ちにこの場を立ち去られよ。万一、太閤殿下にこのことが伝われば、我ら主人(中村式部少輔)に迷惑がかかり来るやも」と分別を促し、「長康殿と我ら主人とはじっこんの間柄なれどこのたびの御災難、今は太閤殿下に口答え致す者もないという不甲斐なさ」少しでも慰めになればと「貴殿らの御尊名を長康殿に披露すると、至極御満足の様子だった」と付け加えた。

===*===

この長康の妻は坪内氏の娘であったのだろうか?
坪内氏からの養子という説、坪内氏の婿という説、等ある。

そして、清助が気になる。
清助は常円という僧となり、前野将右衛門長康の菩提所「観音寺」を建立し、生涯守ることとなる。
清助こそ「前野義詮」という事である。

http://www.konan-kankou.jp/kankouannnai/s11/


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武功夜話 気になる登場人物memo (11)細川忠興の娘、前野長康の息景定の妻となる

2020-10-18 | 佐々氏 バラバラ情報

武功夜話三巻 吉田蒼生雄全訳 新人物往来社 
p.179
天正十九年四月二十三日、前野出雲守景定結婚の事

細川忠興とガラシャの娘である「長女:長(蝶、1579年 - 1603年)」は、前野景定室、となる。
長康の息である。

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武功夜話 気になる登場人物memo (10)前野氏、家伝記写しの事

2020-10-18 | 佐々氏 バラバラ情報

武功夜話二巻 吉田蒼生雄全訳 新人物往来社 

p.186
前野氏、家伝記写しの事

一、家伝記ならびに五十桜記
右家伝書、五十桜記蝕のため(「と」はどうも虫食いの意味らしい)損耗甚しき故をもって、尾州前野郷由緒書と相改め、
遠祖高長以来、尾張国小弓庄相伝の知行地相記し置く者なり。

一、元祖三位高長の嫡子(前野高長の嫡子)
滝口右馬助宗長 本地前野郷
尾州丹羽郡小弓庄主譜第の所有地は、すなわち尾張国東上、西条併せ壱条より十三条の田畑、在家等は元祖三位高長重代の所領地なり。
右は古証文等と蝕のため相残り候ところの断簡の文書等を取り纏め候。

一、本家の立木田家はその惣領をもって、稲木庄と号するところ明白なり。
右稲木庄十四丞より三十六条、東西合せ二十七条なり。立木田大夫高義の嫡子、立木田高光に至るまで郡司を司る処、承久尾張川の一戦において、故あるをもって宮方に合力ともに相伝の所領地、稲木照、小弓庄を没せられ、六波羅府に嘆願候も未だ赦免を蒙らず候なり。右馬三郎時綱(前野時綱)の世在所前野郷に蟄居候なり。

一、滝口右馬入道宗安(前野宗安) 右馬寮
尾張国大介職中島左衛門尉の被官となり、先祖伝来相伝本貫の地、尾州小弓庄前野郷を安堵なされ候なり。

一、尾州丹羽郡前野郷御厨建立、入道宗安
前野御厨、二十九町一段大、伊勢外宮権神主禰宜、維時文永二歳。
所領地は、百五十八町一段大。

一、入道宗安嫡子、前野右馬三郎時綱、前野を号す。天満宮を勧請。

一、右馬三郎時綱の所領地
  一、尾州丹羽郡稲木庄の内、前野郷外十二ヶ村、十七条桑原まで。
  一、前野郷古川筋東より、西は下津、大介川を越え妙興寺、井村筋散在まで。
  一、中島郡の内、井郷■■(不明)、妙興寺散在、砥塚、西井之口郷、暗水里まで。
  一、中島郡の内、合わ四十四町。
    川内、板倉郷、荒野二十五町、これは与分。
    野笙(野府の事)、高野島、荒野十九町。
    右荒野は馬飼地なり 

一、板倉四郎右衛門行記
板倉四郎右衛門、大日を勧請すこの人なり。
この人は越後国頚城郡板倉郷の住人、滝口入道宗安ともに尾州前野郷へ罷り来たり候。
(越後の板倉郷と云えば、親鸞の妻であった在京の豪族三善為教の娘である「恵信尼」の里でもある。)…私的memo

一、吉田四郎右衛門宗吉、尾州中島郡河内、板倉郷、野笙郷を興し候なり。
右は五十桜記に記す。
宗吉は、兵庫助義氏(前野義氏)の嫡子四郎右衛門という、吉田を作る始めの人なり。

一、遠祖滝口右馬入道宗安は、右馬寮下司なり、尾張国大介中島左衛門尉の被官と相成り、河内の荒野において馬飼い仕り候なり、これは上郡駒という。

一、遠祖滝口右馬三郎時綱の代、五十桜記写。
弘長元正月、六波羅府より先祖重代の所領地、尾州丹羽郡稲木庄前野郷の本地分、田畑、在家等地頭職合せ領掌の由仰せられ執達候。
  一、右六波羅府墨付き書状、足利氏荒城応仁の擾乱の時、家舎、蓮華寺ともに兵火の狼藉のために焼失畢る(おえる)なり。
    しかるところ小弓庄は元祖以来の所領地の事、手綴候自明白に候。

一、先祖四郎三郎綱宗の代
斯波武衛様の守護職、織田伊勢守入道常松公、尾州入国の時御召し出しこれあり。相伝の地丹羽郡古川より、中島郡大川介まで、併せ妙興寺散在の田畑に至る。子々孫々違乱あるべからずの旨御下知状あり。
故に相伝の所領地、尾州丹羽郡において十二ヶ村、中島郡において、井郷、妙興寺散在、砥塚西八ヶ村。

===*===

承久の乱の際に一時没収されたが、その後戻ってきたようである。  
板倉氏という人物が気になった。三善氏ではないのだろうか?

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武功夜話 気になる登場人物memo (9)細川藤孝 と 前野長康 当世茶の湯の咄の事 追記 安土新城の事

2020-10-09 | 佐々氏 バラバラ情報

p.383
当世茶の湯の咄の事
一、付けたりの事。清助殿当世茶の湯の咄
長岡兵部大夫殿(細川藤孝)、当世流の御仁に候。
茶の湯の道、三十一文字の道、和漢の書に堪能なり。
殊に当世の茶の湯、格別に堺町の住人宗易(千利休)と交わりあり。
この道を宗易より極む、宗易の高足に候なり。
前将殿、この故をもって茶の湯の道宗湯殿を師と為す者なり。
右御茶の湯の事、当世数寄者と申しこの道を嗜む者高家、摂家は元より、信長公を始め諸将に及び候と申し語り候。
孫四郎覚え。(吉田雄翟)


一、長浜新尉普請の事、並びに領内検地の事
蜂須賀彦右衛門尉(正勝)
前野将右衛門尉(長康)
 係、藤堂与右衛門(高虎)
   青木勘兵衛尉(一矩)
   真野右近将(助宗)
   加藤作内尉(光泰)


一、前野長康江州覚えの事、検地の事
もと浅井領三郡 浅井郡、伊香郡、坂田郡 

一、天正三年、前野長康江州所領地明細の事
浅井郡において上坂郷外六郷内、…
伊香郡において田居郷他二ヶ郷

===*===

この辺り(新人物往来社の武功夜話第一巻のp.387)
信長が大納言となって、安土新城を造った事など興味深い。しかも描写が生き生きとしている。

大石をいかにして引き興し、頂上の城近くまで引き上げるのか…など難しく、皆で頭を突き合わせて相談!
妙案を前野将右衛門が思いつき、惣奉行として丹羽五郎左衛門が取り仕切って行われた。(丹羽長秀のことと思う。)

一、御本丸石垣作事の事
筑前様、兼て御本丸の石垣に付き、穴太衆石職の弥兵次、惣左等頭衆を始め五十有余人の石工を召し寄せ御領内観音寺山、長命寺山より石を切り出し、水陸両道より安土へ運び入れ、御領内の人足連日六千人有余人諸将に後れ取り間敷競い合い候なり。
石奉行、前野将右衛門(長康)、蜂須賀彦右衛門両人の者、安土山石垣作事奉行申しつけられ候。観音寺山石切り場奉行、藤堂与右衛門(高虎)、尾頭甚右衛門(知宣)。湖上舟手奉行、浅野弥兵衛(長政)、桑山修理亮(重晴)。往還筋、加藤作内(光泰)、神戸田半左衛門(正治)、宮部善祥坊(継潤)、立木伝助(直治)、一柳勘左衛門(直次)、大方右の如くに候なり。

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石道を開くため、夜を徹し樹木を切り倒し切り払い、鋤鍬を振って石道を開作し、樫木を敷き詰めこれに油を塗り、修羅を引き上げ十本の大綱数千の人足掛け声師とも曳き揚げると、スルスル難なく御山の頂に上らせることができたという。

此の油を塗る!という処に感心!




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武功夜話 気になる登場人物memo (8)細川藤孝 と 前野長康 禁中作法を聞く事・当世茶の湯の話 

2020-10-09 | 佐々氏 バラバラ情報

「麒麟が来る」に登場もしている 藤孝殿=長岡兵部大夫 
大河ドラマと同時並行のような武功夜話!

前野長康 細川藤孝より禁中作法を聞く事

一、羽柴藤吉郎殿、去年霜月信長公に相随い申し御上洛候事。
信長公越北を隅々まで切り崩し越前の儀相定り、柴田修理殿に探題を仰せ付けられ候。
右の旨御奏上のために御昇殿、これに御家来衆まで官位を賜り候なり。
右羽柴殿も上洛に付き、雇従の者御舎弟樹下小一郎様(秀長)、杉原七郎左衛門殿、浅野弥兵衛殿、前野将右衛門尉殿、大方右御三人の御首(おかしら)衆に候なり。
供奉の人数百二十有余人に候。
当日禁中の三条大納言御名代とて御官位の儀式これあり候。
この儀我等、杉原、浅野等しく覚悟覚束なく候。
よんどころなく某思案候事、忝くも(かたじけなくも)此度禁中へ参内御官位の儀越度候いては面目なき候
将又(はたまた)田夫、野人と都鄙の嘲笑、これ藤殿一人に非ず信長公を辱めることに候事。
不忠の臣、左右思案の果て不調法を顧みず、山城の国の住人長岡の城主長岡兵部大夫藤孝殿
この人公方様に奉仕、万禁中の儀堪能の御仁に候なり。
去年より上洛度々、洛中二条の妙覚寺において御茶の湯の席にて御目に掛かり候以来、前将殿(前野将右衛門)と昵懇の間
勿論羽柴殿在京中の諸事の差配仕置きの件、兵部大夫殿をもって御相談なされ候なり。
早速に前将殿、兵部大夫殿を洛中の役宅に罷り越なされ、禁中においての諸事作法の儀詳しく相尋ね、越度なき様に相計り候。


===*===

前野将右衛門長康 と 細川藤孝が茶の湯の席で知り合い、仲が良くなり、禁中での作法を詳しく教えてもらっていたという事のようである。







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