九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

月海夫人と月海太郎

2019-06-03 | 紀氏


蜷川氏に続く「宮道氏」は、やがて越中に下り一時期は「太田」と名乗ったそうである。
その後に「蜷川氏」を名乗る。

この家系からは後に「足利義満の母の月海夫人」を輩出したと蜷川家には伝わっている。
「月海夫人」は「善法寺通清の娘」とされ、「紀良子」とされる。

その「月海」と「月海太郎」の土岐光忠とは、石清水八幡つながりなのだろうか?

印象の強い「月海」である。



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武内宿禰と近江国

2018-04-23 | 紀氏
近江国  滋賀県 郷社「浅野神社」高島市津町角川95

          郷社「津野神社」高島市今津町北仰316-1
             ・祭神:紀角宿禰・角疑魂神・武内宿禰

          村社「坂本神社」高島市マキノ町上開田609-2
             ・祭神:木角宿禰命

          村社「大見神社」長浜市大見753

          近江国一宮「建部大社」大津市神陵1-16-1
             ・境内「檜山神社」

          郷社「若宮八幡神社」大津市杉浦町20-20

          県社「日牟禮八幡宮」近江八幡市宮内町257
・成務天皇が即位の時、武内宿禰がこの地に
              「大嶋神社」を祀ったのが草創とされる
     
          県社「大嶋神社=奥津嶋神社」近江八幡市北津田町529
             ・成務天皇の時代、武内宿禰より勧請された

          天台宗単位「長命寺」近江八幡市長命寺157
             ・景行天皇の時、武内宿禰がこの地の柳の下に
              「寿命長遠諸願成就」を祈願した場所

因幡国  鳥取県 因幡国一宮「宇倍神社」鳥取市国府町宮下字一宮651   蓮忍がいた近くである。
             ・武内宿禰が御隠れになったと記されている

         式内社「意非神社」八頭郡若桜町屋堂羅1
            ・武内宿禰が境内より放った矢が落ちた地

http://zan35441.on.coocan.jp/sub11-21.html
紀氏に関しては、こちらが詳しくとても勉強になります。
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肥前基肄郡(きい・ぐん) 古代からのつながり 番外編

2018-04-23 | 紀氏
神功皇后とのかかわりを探っていて、いつも共に行動をしていたらしい「武内宿禰」が「紀氏」の祖であることに今更ながら気が付き、そこを掘ってみることにした。(以前から知ってはいたがピンと来ていなかった。)

紀伊国の「武内神社」の伝承では、http://kamnavi.jp/ki/city/takeuti.htm
(しかし、この著者は生誕は九州説が有力と書かれているし、私もそう思う。)
 近くに武内宿彌誕生井がある。 この当たりで生まれたとされる。紀氏の傍系であったが、本流が途絶えたこともあって本家になった。 数代の天皇に二百年以上仕えたとされているが、子々孫々同じ名前を名乗る事は、商家、役者等にもある。

 日本書記には武内宿彌を祖とする氏族として波多氏、巨勢氏、蘇我氏、平群氏、紀氏、葛城氏をあげている。

天皇家以外の大臣の系譜が詳細に記されているのは珍しいとされている。

権力中枢における紀氏の大きい力を証明するものとの説もあるが、それよりも武内宿彌が限りなく大王に近い存在であったと理解しておく方が正しいと思われる。

 武内宿彌を祖とする各氏族と同じ地名が福岡県の中央部の甘木市の周辺と大和(紀氏は肥前基肄郡と紀伊)に分布している。集団での氏族移動のあったことを示唆している。


日本書記には武内宿彌を祖とする氏族として波多氏、巨勢氏、蘇我氏、平群氏、紀氏、葛城氏が挙がっているそうである。

http://zan35441.on.coocan.jp/sub11-21.html

紀氏との関係は、その後も続き、近江国では「木村氏」として佐々木神宮職を相続し、また日牟禮八幡宮も「創建:伝131年
で、成務天皇が高穴穂の宮に即位の時、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのが草創とされている、そうである。

以前記事にした際には、なぜ武内宿禰が…と思ったものだが、今では納得もできる。

そして、【木村氏】のみならず、【井氏】【平井氏】【堀氏】【一井氏】(櫟氏)【井上氏】【相賀島氏】【浅小井氏】【深尾氏】
【山田氏】【奥島氏】【馬場氏】【新屋氏】【三上氏】【虫生氏】もその仲間となると思う。

そして、【田中氏】【滋野氏】も、である。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/s_iked_k.html

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紀氏と近江国(1)岸本源太四郎入道 道観 女

2017-12-02 | 紀氏

宮内庁書陵部のデジタルで、「紀氏系図」を見てみた。すると興味深い事が何点か見つかったのでご紹介したい。武家家伝 摂津池田氏にも同じ系図があったので、そちらを~!

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/s_iked_k.html

一番下にある系図である。
紀氏で有名な『長谷雄』から始まっている。息二人の内一人は「紀伊国造 紀伊守」「日前宮」とあり、もう一人は「信濃守」孫では「号池田」とあるように池田氏になっていく。
そして、源仲正(政)の息である『泰政』が入ってきている。

泰政は源頼政の兄弟である。

泰忠の後ろが、少々「紀氏系図」と変わってくるので、デジタル「紀氏系図」からだが、三男『紀泰春』(1237年生)の息『紀泰保』の註に「母 近江国 岸本源太四郎入道道観女」とある。(帯刀左衛門尉 泰春の妻となった女性)

同じ兄弟の『紀盛氏』の方は「池田九郎長氏為養子」とある。

岸本氏は、 岸本遠綱という人物がいるが、あまり解明されていない氏だと思うので、これは何かしらのヒントになるのではないだろうか?
平井氏ともつながっている「岸本氏」。そして高屋氏・大江氏ともつながってくるようである。

「岸本氏・平井氏」に関する情報を何かお持ちの方、小さなことでも教えてください! どうぞよろしくお願いいたします。






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紀氏と近江国は

2017-12-01 | 紀氏

紀氏と近江国の関係=こちらの情報が充実しておりました。
http://zan35441.on.coocan.jp/sub11-21.html


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紀伊国 宮井神社 と 近江国 宮井廃寺 偶然に同じ名前なのだろうか?

2017-12-01 | 紀氏

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%89%8D%E5%9B%BD%E6%87%B8%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E3%81%A8%E9%AB%98%E5%A4%A7%E6%98%8E%E7%A5%9E%E3%81%AE%E7%94%A8%E6%B0%B4%E7%9B%B8%E8%AB%96

宮井(神宮井)

JR阪和線の鉄橋から望む紀ノ川。
宮井(みやい)は紀ノ川下流左岸(和歌山平野)を潤す灌漑用水で、その名称は元亨元年(1321年)の文書に見える「ミアイノハタ」が初見[10]。開削は古く古墳時代にまで遡り、当地の豪族であった紀直氏(後の紀伊国造家)の和歌山平野開発に伴い、その主導の下に紀ノ川の旧河道を固定化して造成されたであろうことが推測されており[11]、古代律令制時代には500余町(180万坪、およそ600ha)に及ぶ平野部の水田を潤す一大幹線水路として国衙によって管轄され、取水口の幅は当時としては破格の1段(およそ11m)もあった[12]。その後国衙の権威の低下に従い、それに代わって本来的な関係を持っていた日前宮が管理するようになり(日前宮の祠官は古来一貫して紀伊国造家が勤めている)、そこから「宮井」と称されるようになり、ほかに「神宮井」や「大神宮大井」などとも称された。


http://www.city.higashiomi.shiga.jp/cmsfiles/contents/0000007/7936/miyai.pdf

近江国の宮井廃寺のあるところ 赤丸が宮井町








http://www.ksyc.jp/mukuge/266/teraoka-33.pdf


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紀氏と田中氏, 紀氏と木村氏

2017-12-01 | 紀氏
前回の記事で、紀氏と田中氏との関係に触れていたが、12世紀初頭、紀頼清の子、その裔 慶清からの田中家、祐清からはじまる善法寺家が出現。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_ki2.html

この田中氏は紀伊国にもいた「田中氏」であろうか?
そして近江国にもいた「田中氏」とも繋がるのであろうか?

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/80d03746ddda6c6096778448d0f2ed1c?utm_source=admin_page&utm_medium=realtime&utm_campaign=realtime


近江国の佐々木宮の「木村氏」が「紀盛宗女」から出ていることを考えると、紀伊国さらに遡ると「宇佐」にたどり着くのかもしれない。
その紀氏の祖である「武内宿禰」は、近江国「大嶋奧津嶋神社」「長命寺」「日牟礼神社」にも縁がある。
そして奥島に居たのが「紀盛宗女」のようである。(紀盛宗は熊野別当として同名が系図にも残っているが、私は同一人物かな?と思っている。)

・・・とすると、九里氏の古代が「神功皇后」に結びついているとなっても、不思議ではないと思う。
鏡・矛が発掘されている久里双水古墳、久里大牟田遺跡、久里天園遺跡、久里・中原氏、久利・清原氏、紀氏、と一列につながり、近江国に来た「紀氏」は木村氏・真野氏等を経て、後に「九里(くのり)」の地を預かることになって「九里氏」になったのかもしれない。
九州 末蘆国 古墳・遺跡のあったあたりの「久里」はもともとは、「九里」の漢字だったのを志州の公が「久しい」の方が良かろう~と漢字を替えたという経緯があったようだ。


この「紀氏」の動きが、久里・久利・九里のいた場所と合致すれば、この「くり三氏」は同族となるのではないだろうか?

鏡が渡って来たルート を もう一度考えると、何か出てきそうな気がする。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%89%8D%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E3%83%BB%E5%9C%8B%E6%87%B8%E7%A5%9E%E5%AE%AE


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