源為義女鳥居禅尼(熊野別当行範妻) 紀伊国佐野荘
鳥居禅尼は、佐野荘以外の【但馬国 菅荘】にもかかわっていた形跡がある。
その菅荘の地頭として大田文に二人の名が挙がっている。
但馬国菅荘
藤肥前太郎経久
多々良木(岐)孫太郎長基
沙弥蓮忍、蓮忍入道(いずれも九里太郎)の居たと思われる丹波国の河守荘と因幡国の冨城郷の間に位置することになる但馬國の菅荘。
地図をよく見ると、菅荘の近くに伊福部宮や、日置郷、雀岐荘、水谷大社、がみえる。
【伊福部宮】九里の祖の太郎経久は、因幡国の宇倍神社で伊福部氏のすぐそばに居住していた。(冨城氏)
此の菅荘の藤肥前太郎経久が九里太郎経久(冨城蓮忍入道)と同じ人物である可能性もあると思う。
そうなると肥前国高来郡の深江蓮忍が経久であることを示唆しているのかもしれない。(肥前という名乗りより)
日置郷の日置は、測量士であった日置を思い起こさせ、【雀岐荘】との関係も、佐々貴山君とつながっていたと思わせるに十分なのだ。
日牟礼神社と奥嶋と高島郡の日置神社のラインを思い出させる。
これは日置氏が佐々貴山君と共に居た痕跡であるかもしれないとさえも思う。
更に水谷には大江氏がいた。(水谷重清)
延暦3年(784年)
栗の樹とも関係がある。栗岑という地名だろうか。