前回「別人であることがはっきりした。」と言い切った後に出てきた一冊の本に
「決め手はないが、同一人物である可能性がある事」を示唆されていた。
まぁ、プロの方々でも難しい箇所のようなので、アバウトにしている方が賢明であるのかもしれない。
…という事で、駒を戻して、一応同一人物の可能性は否定しない‥‥という方向に転換して 調べることとしたい。
さて、「佐貫」という名に聞き覚えがあった。本の記述とは別で、私の記憶の中の『佐貫』なのだ。
武蔵にも、下野にもその名はあるそうなのだが、思い出したのは上総国の佐貫城であった。
片岡経春(常春)が居城していた?とか、義経を連れて行ったとか?
もう一度調べてみるとそこに佐貫広綱がいるのではないだろうか?
範頼の配下に居て、後に義経の配下に移ったようであるが…(後日述べる)
系図では阿曽沼広綱と佐貫広綱に二代分の開きがありそうに見えるのだが、
佐貫広綱は頼朝の時代から頼家、実朝、間で活躍してるようなのだ。
という事は、此の系図の佐貫広綱よりの位置よりも前の世代に活躍しているのではないだろうか?
1219年の源実朝が殺されたあの八幡宮拝賀 にも参列していたことが吾妻鑑で分る。
という事は、佐貫広綱と阿曽沼広綱と同世代という事になりそうなのである。
初めは佐貫広綱として活躍し、後に阿曽沼を称したのだろうか?
そのスタンスで調べていたら、文治五年七月十七日の阿曽沼広綱と佐野広綱の両名が同じ文書の中に発見できたのだ。(1189年)
つまり、別人であることがはっきりとしたのである!!!
阿曽沼次郎広綱 と 佐貫四郎広綱!
・・・という事で、すっきりとした。
先に進めていこう。