上記のページに八幡宮の別宮のことが載っている。それを読んで、石清水八幡宮と九里氏につながりがあるのかどうかを私なりに検証してみた。
1158年には菅荘(すげ・しょう)は立荘されていたと思われ、さらになぜ鳥居禅尼が関わるようになったのかを探ってみた。
それには熊野別当家である湛快が関係する。
平忠度の父、平忠盛は但馬国を与えられ…とある。
忠度の妻となった一人は湛快の娘である。もう一人は良岑高光の娘 である。
Wikipediaからだが【承安2年(1172年)、湛快は別当職を甥で権別当の行範(新宮別当家当主)に譲って隠居し、承安4年(1174年)に死去した(熊野速玉神社所蔵「熊野別当代々次第」)。享年76。】とあるように、行範が跡を継ぐ形となった。行範の妻が鳥居禅尼である。
鳥居禅尼は、菅荘の南の多々良岐の地頭となったのも、このことと関係があるのだと思う。
熊野別当家、
良峯氏の原高成の孫にあたるのが良峯高光であるが、
後世から想像するに両家とも関係の深い九里氏である。
特に、良峯氏の出となる前野氏は、佐々氏となり、我が家系と養子縁組が少なくとも二回はあり、系図に記載もある。
熊野別当家と高須家も結びつきがあり、和歌山の九里家とその高須家との婚姻関係と養子縁組がある。
どちらも関係するのである。
また、貞行名の地頭を務めていたと思われる源慶豪の甥は、小坂を名乗る。
そして、良峯氏にも小坂氏が存在する。
この後の時代、信長・秀吉の時代と此の但馬国と良峯姓前野氏とのつながりは続くようで、調べていても面白い!(つづく)