九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

近江国伊香郡? 余呉の伝説と平常将の伝説

2020-01-01 | 千葉氏

明けましておめでとうございます!
令和二年 天女が舞っています~~**






余呉と千葉氏の伝説を読み比べて欲しい。

http://yogokanko.jp/node/60

http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2016/08/13/210043


伊香郡周辺、近江国内の湖北だが、若狭にも、美濃にも近い。
片岡郷はそれなりに集落であったのではないかと思う。

その伊香郡の開発領主と思われる江州中原氏。

天女との間に生まれたのが常長であったのかもしれない!

天女にもきっといろいろな意味があって、天に仕えている女性。
つまり巫女的な意味合いも含まれていたと思う。

何故同じような伝説が余呉と千葉にあるのかを知りたい。


本年も、どうぞよろしくお願いいたします。

写真は北海道黒松内の春!
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ただ一行のヒント 原弾正忠胤の横にあった。(2)浪合

2019-09-24 | 千葉氏


この左側にある地名「浪合」は、聞いたことがある。

浪合記である。

とても重要なヒントがあったので、全文コピーさせていただく。
http://muromachi.movie.coocan.jp/namiai/namiai14.html

大橋家伝

 九州の守護、大橋肥後守平貞能の末葉である。平家の滅亡後、肥後守は肥後国大橋という所に蟄居した。宇津宮に仕えて常陸に赴き、出家して三河国に移り住んだ。その場所を大橋という。その後、尾張国熱田に隠れ住んだ。そこで農家の女二人を妾として、おのおの二人の娘を成した。

 頼朝は貞能を捜索した。尾張国の、原の太夫高春が扶助していると耳にして、梶原源太景季に命じて原の城を攻めさせた。貞能は、景季の陣に行って、自ら捕らわれた。景季は貞能を虜にして鎌倉に下り、そこで比企谷の土牢に入れた。

 貞能の妻が肥後国で産んだ男子、一妙丸(後の貞経)が、父の生死を知るために鎌倉に下った。鶴ヶ岡八幡宮に毎日毎夜参詣して、法華経を高声に読誦し、父のことを祈ること数カ月に及んだ。その容色は、とてもただ人とは思われなかった。

 世間の人々が奇異の思いをなしている事を、頼朝卿の御台所が聞こし召され、事情を聞いて頼朝卿にお告げになった。そこで、頼朝卿は一妙丸を召して、意趣を聞かれた。一妙丸は泣きながら父の事を詳しく言上した。頼朝卿は憐愍を加えられ、貞能の命を助けて所領安堵の下文を賜り、九州に帰された。これが大友の元祖である。

 この一妙丸が貞能の家をお継ぎになった。貞能を尾張で扶助していた原の太夫高春は、千葉上総介広常の外甥で、薩摩守平忠度の外舅である。

 貞能の子、大橋太郎貞経の後裔は、代々尾張、三河に居住した。貞能が尾張で成した四人の女子(二人の妾が同月同日に二子を産んだ)を、後に頼朝卿が鎌倉に召して、一人を三浦の佐原太郎平景連に下された。これが真野五郎胤連の母である。一人を佐々木三郎兵衛西念に下された。これは小三郎盛季の母である。一人を安芸国羽山介宗頼に下された。そして、一人を大友四郎経家に下された。これは豊前守能直の母である。

 その四人の女子の生まれた里は、末代までの験(しるし)として、四女子と名づけられた。その後、四女子の母を祭った社がつくられた。後にこれを、間違えて頼朝の宮と呼んでいるという。

長享二年戌申九月十八日           
天文二年癸巳三月五日写之了不可及他見者也  
正徳三年癸巳九月中旬写之者也        
平成十年戊寅四月十一日訳之了可及他見者也  

==*==

いくつも大事なことがあるので、疑問を含め、まとめてみようと思う。

まず、この平貞能が宇都宮に仕え…は、貞能の母親が宇都宮の娘であった。
尾張国熱田の原の太夫高春、浪合に領地を持っていたという事なのだろうか?

その原氏のことが詳しく「上総平氏 平広常」のページに載っていた。

3月13日、尾張国の原大夫高春が鎌倉に召し出された。高春は「故上総介広常外甥也、又為薩摩守忠度外舅」であったという(『吾妻鏡』寿永三年三月十三日条)。平氏の縁戚であったが、広常の外甥という血縁を頼り、治承4(1180)年、頼朝のもとに馳せ参じて以来、忠孝に励んだ。しかし、広常が謀叛の疑いで殺害されたことで、血縁にある自分にも類が及ぶことを恐れて蓄電してしまった。

ところが、広常の無罪が判明し、一族も名誉を回復したことで、その中でもとくに功績のあった高春は「本知行所領」を元の如く領掌することを申し含めた(『吾妻鏡』寿永三年三月十三日条)。尾張国の豪族である原氏が広常とどこで接点を持ったがは不明ながら、『良峯氏系図』によれば、高春の父・原大夫高成は「従五位下」「上総守」であり、常澄は高成に娘を嫁がせて血縁関係となったのだろう。

では、この原大夫高成は、いかなる人物であったのか。
http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E8%AC%8E%E3%81%AE%E5%A4%9A%E3%81%84%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%9C%9F%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E3%80%80%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%AE%AE%E5%8F%B8%E3%80%80%E5%8E%9F%E5%A4%A7%E5%A4%AB%E7%B3%BB%E7%B5%B1%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AE%E8%A6%9A%E6%9B%B8.html

良峯系図
http://www.maeno3.com/m-ichizoku/m-yosimine.htm

自分の記事
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E4%BA%8C%E5%AE%AE

何故 原高春が気になったのだろう。不思議ではあるが、柏原藩の我が系の九里家はこの良峯姓の前野氏(佐々氏を名乗っている)から養子が入ってきているので、(佐々宗淳の兄の曾孫が我が家に!)無関係ではないと思う。

またしても「宇都宮氏」とのつながり、上総平広常とのつながり、佐原氏・真野氏・大友氏とのつながり。

特に今回気になったのが、大友能直で、母の生家の波多野経家(大友四郎経家)とあることから…とweb情報にはある。
能直の母親は、利根局であり、波多野経家養女となっている。

大友氏は、中原氏でもある。



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ただ一行のヒント 原弾正忠胤の横にあった。

2019-09-23 | 千葉氏



原弾正忠胤の横に、「以後 中原武田家…」とある。




世 領 浪合 文亀二年討死 (1502年)

原七郎兵衛胤秋
原七郎胤定 父ト?討死
浪合備前守胤成 天正三年長篠 戦死 (1575年)
浪合万五郎 天正十一年 田?殉死

これだけの記載だが、
この誰かの系の娘が、岡田氏に嫁ぎ、後年原氏の菩提寺を訪ね、系図を写したのだと思う。(岡田元茂=元繁)
以前書いた記事【中原一族 「岡田元繁」 千葉県印旛郡誌: 前編, 第 1 巻 に見つける】につながったと思えた。
一度は間違えだったかもしれないと思ったが、今は合っていたかも!と希望が見えてきている。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/bc7e5f204e67ed115779e33fba15f855


===*===
wikipedia 小杉御殿 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%89%E5%BE%A1%E6%AE%BF 

千葉氏の流れを組む原家は、小杉御殿が完成した時には御馬屋敷近くに住んでいた。5代の原平六の頃には御殿跡に屋敷「平六大尽」を構え、原家の屋敷には中原街道を通る大名などが宿泊したという。

原家は天明4年(1784年)に肥料商を開店し、各地に石橋を架けたという。
1877年(明治10年)頃には原家の「平六大尽」もなくなったが、別の屋敷で1948年(昭和23年)から1961年(昭和36年)まで割烹料亭を営む。この屋敷は川崎市立日本民家園に移築されて保存されている。

http://www.nihonminkaen.jp/facility/old_folk_house/00_hara_house/


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千葉成胤の娘が土岐七郎に嫁いでいる。

2019-09-23 | 千葉氏



【土岐播磨守常忍】が正しいとすれば、小山播磨守朝政か朝長、土岐七郎○○の、どちらかの息だったのではないだろうか?
その妻が千葉氏とすれば、どこに中原氏が入るのだろう?

常忍の父は【富城中太蓮忍】=中原太郎左衛門尉経久である。
父だけが中原であったのかもしれない。(ちなみに祖父は中原橘次経任)

また、小山朝長の妻は中条宗長の娘であったので、そこで宇都宮氏と関係しており「中原氏」を名乗っていたのかもしれない。小山長村の母のことである。

【諸家系図纂】より↓






千葉成胤の妹に小山小太郎妻…小太郎?(小四郎ならば小山朝政(播磨守護))

成胤の息胤綱の妹に土岐七郎左衛門妻(七郎は誰に当たるのだろう? 光家?)

下河辺行綱の娘が東六郎胤頼の妻(因みに土岐光行の妻は東六郎胤頼の娘である。)


太田小太郎と言えば、小太郎行助がいるが…

===*===

源実朝が生まれた際に乳母が介錯手伝いをしたのだが、そこに常忍の母も若年ながら手伝いとして同席していたという説もある。

それが、阿野上総妻=阿波局、大弐局、上野局、下総局等である。
この大弐局は加々見遠光女とある。

この下総局が常忍の母という。





1216年以前には、因幡国の国衙 在庁官人として赴いている中原経久=蓮忍。
1249年か1250年には、蓮忍・常忍は東国(下総)に呼び戻されて、常忍は「千葉頼胤」のもとで文官として働いている。

常忍は1216年生まれ
常忍の母は1185年生まれ
蓮忍の生まれた年はわからないが、妻の年齢から1250年には65歳は過ぎていたであろうと思われる。



下総局は1213年中山四郎重政の跡を賜わっている、
もしかするとそこが中山法華寺の場所なのかもしれない。
下記の情報によると埼玉県飯能市の中山とあるので、違うかもしれない。

■【吾妻鏡】の記載(赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!! さんより)
1213年(建暦三年) 和田義盛が将軍御所を襲撃した時、中山重実の子、中山四郎重政、同太郎行重(埼玉県飯能市中山)等の親族・友人が加担した。

(※赤丸城城主の「中山氏」はその子孫が著した「由緒」に拠ると、①「秩父平氏中山重実の子孫」(赤丸名勝誌)、②「藤原氏である近江の今井氏の系統」(中山正弥家文書)、③「源氏で近江の中山氏の系統」(中山清暉家文書)とする家系が在り、数々の古文書が敦賀市博物館に残る本家筋と見られる中山氏は「藤原氏」(②)を名乗る。)



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すごいページを発見! 占部・臼井・上総・千葉氏のつながり。

2019-08-22 | 千葉氏

http://urabe-roots.net/usuishi.htm

中ほどの「赤い色の系図」のすぐ下あたりに注目してみると、

『前にも述べたように、頼朝以前は千葉介だった常胤より、上總介であった広常のほうが大きい勢力であった。そして、臼井常忠や子供たちは頼朝挙兵の折にも、広常の軍勢に加わっていたと思われる。ところが1183年、広常は頼朝に謀反を疑われて抹殺される。広常の弟天羽庄司直胤・相馬九郎常清らは投獄され、領地は没収された。その後疑いは晴れ、弟たちも助命されたが、この時広常についていた常忠や子供たちにも難がふりかかったのではないか。常忠には13人ほどの息子がいたとされるが、このあたりの記録が乱れるのは、おそらく領地は没収され、一族散り散りになり、姓を変えたり、他家に預けられたりしたからではないのか。

ここである。
もしも片岡氏が上総氏の親戚であったとし、海上氏に預けられ、その後片岡氏となり…とも考えられないだろうか。

そして臼井氏や原氏などを見ていると「平常長」の後裔でもあるが、母が中原氏であったことに始まり、尾張氏と、また、大中臣氏とも何等か関りがあり、占部氏とつながってくるのではないだろうか。



http://www.hatamotokaneda.com/kazusakaneda-history/kk001/kk1e-hirotsune.html

特に「原高春」
原高春は尾張国二宮大縣神社大宮司。母が上総広常の妹なので上総広常の軍に加わった。源頼朝の母は尾張国熱田神宮大宮司・藤原季範の娘。
源義朝の正室は頼朝の母と言われ、実家の家柄の良さが源頼朝を嫡子として扱われた理由とされている。
「上総御曹司」と呼ばれた源義朝によって上総広常の父・平常澄を配下にしていたことは既に述べた。
平常澄の娘(上総広常の妹)を尾張国二宮大縣神社大宮司・原高成に嫁がせたのは、源義朝の意向だったと考えられ大変興味深い。

…これも非常にありがたい情報であると思う。

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千葉介常胤の息・園城寺律静房日胤

2019-07-14 | 千葉氏

園城寺律静房日胤は千葉常胤の息とされている。

千葉氏の近江国との接点はココと思う。

日胤がなぜ八条院や以仁王とかかわりを持つようになったのかが、千葉一族のHPのなかの【円城寺】に書かれていた。

大変興味深いので、ご一読いただければと思う。

http://chibasi.net/enjouji2.htm
http://chibasi.net/enjouji.htm

胤正の下の弟にもなろう「日胤」
弟子のひとりに「公胤」がいて、その弟子に「公暁」がいるのである。

公胤は東六郎胤頼の息であり、すぐ上の姉が「土岐光行に嫁いで隠岐守光定を産んでいる女性」となる。

さらに蛇足的だが、
源頼政の息である仲綱は頼朝と同時期に蔵人として出仕していた経歴を持つ、そうである。

さらに、頼政の養子に美濃源氏の源国政がいる。斉院次官となっている。
母は山城守頼季の娘だそうで、実父は源国直、祖父頼綱、頼綱の養子となっているのが美濃源氏の祖と言われている国房だそうだ。

この山城頼季の子孫は信濃国北部に勢力を扶植し、村上氏、波多氏と称して繁栄している、そうである。



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千葉氏と中原氏との関係からの考察(5)

2019-03-22 | 千葉氏

以前の記事と似ているが、復習しながら書いている。

岡田元繁、中原氏一族。

寛永に入って、原氏を調べに宗徳寺に赴いている。
宗徳寺は原四郎胤高の創立という。web情報を見て見よう。

宗徳寺 <そうとくじ>  (臼井田)

長谷山宗徳寺は、般若船観世音菩薩を本尊とする曹洞宗の寺院です。 
臼井氏の後に臼井城主となった原氏の菩提寺で、応永10年(1403)に小弓城主 原胤高により下総国小弓郷柏崎に創建されました。 

元亀元年(1570)に原胤栄<はら・たねよし>が臼井城主となって以後のある時期、臼井城の周囲に配置されていた砦の一つである手繰砦の麓、長谷津(南臼井台)に移転され、この地にあった長谷山龍雲寺を合併しました。

宗徳寺の「権現水」という清水は、昔この地に徳川家康が狩に訪れた際この水を賞味し、寺領10石を賜ったことに由来する名であると伝えられます。

~~~*~~~

岡田元繁が中原一族であった理由(わけ)

寛政6年に「宗徳寺」(臼井壹町寺前)訪れている人物、岡田元繁がどの岡田氏かという事を、
江戸時代の岡田氏から其の祖を探ってみた。

奈良県宇陀郡史には岡田十右衛門がいたことがわかっているので、そこから遡っていきたい。
まず、十右衛門という名のついた岡田氏はどこにいるのか。


~~~*~~~



memo 忘れそうなので、書き留めておく。

岡田善富の息、長男善慶 二男善里(よしさと)=恕(はかる)=寒泉という号もある。

岡田清助(寒泉)でもある。

ところが「寶泉寺 岡田家墓所・岡田君善富之墓 天明6 孤子恕撰 曽孫善徳立 淨林院殿空山夕遥居」
※岡田寒泉の墓は大塚先儒墓所にあり
http://hizou.30maps.com/map/57857

この「孤子」は「孤児」の事であろうと思うのだが、系図では実の父であったようなので、孤児のように哀しいという意味なのかもしれない。







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千葉氏と中原氏との関係からの考察(4)千葉氏と佐々木氏・伊賀氏とのつながり

2019-02-28 | 千葉氏

千葉介時胤に時代を移そう。(1218-1241)
千葉氏の素晴らしいHPより関係する部分をまとめると、以下のようになる。

http://chibasi.net/souke12.htm

父は千葉介成胤とも千葉介胤綱とも考えられるようだ。母は不明。
妻は北条時房の娘。

父が胤綱だった場合。…妻としては伊賀太郎左衛門尉光季女(『承久記』)と佐々木四郎左衛門尉信綱女(『尊卑分脈』)の二人が伝わる。


伊賀光季は建保7(1219)年2月14日に京都警固のために上洛し(『吾妻鏡』建保七年二月十四日条)、それ以降承久3(1221)年5月15日に承久の乱で後鳥羽院側に移った三浦判官胤義や大江親広入道らに攻められて自刃するまで京都に常駐していることから、胤綱は伊賀光季がまだ鎌倉にいた建保5(1217)年までに伊賀光季女(伊賀光綱姉)と婚し、建保6(1218)年に時胤を儲けたと思われる。

佐々木四郎左衛門尉信綱女については、『尊卑分脈』に「千葉介平胤綱妾」とあることから、彼女もまた胤綱の妻だったのだろう。

…ここで、今まで書いてきた記事を思い出そう。

光季の息であった光綱の室として「佐々木信綱の娘」
(光綱が14歳ではあったのだが。)

光季娘(光綱姉)と千葉胤綱…息千葉時胤

~~~*~~~

千葉時胤は十一歳で家督を継ぎ、なんと二十三歳で没してしまう。
貞永元(1232)年閏9月までには、時胤は大番役として上洛している。

そしてこの時胤の後に頼胤となる。
つまり、時胤と北条時房の娘の息頼胤の時代となる。

父・千葉介時胤が仁治2(1241)年に二十三歳の若さで急死したために、頼胤(亀若丸)は数え三歳で家督を継いだ。

祖父叔父にあたる一門長老の千葉八郎胤時(千葉介胤正九男)が亀若丸に代わって幕府に出仕しており、宗家庶子が亀若丸を支えていたことは事実であろう。千葉胤時はすでに老境であり、叔父の千葉次郎泰胤へ代理職が変わったようである。

~~~*~~~

ここで、以前気になっていた金田氏がでてくる。
この重鎮であった千葉八郎胤時の後裔が「鏑木氏・白井氏」となる。

~~~*~~~

佐々木信綱(一一八一-一二四二)。母は新田義重娘(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。本妻は川崎為重娘(『尊卑分脈』)。正妻は北条義時の娘(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。

この義時は時房の異母兄である。政子も異母妹となる。

義時に滅ぼされた人々(合掌)
1200年 梶原景時 族滅
1201年 城長茂 族滅
1203年 比企能員 族滅
1205年 畠山重忠 敗死
1213年 和田義盛 敗死

~~~*~~~

話を元に戻す。

千葉氏は伊賀・佐々木・北条とつながっていたことになる。
さらに伊賀とつながるという事は、
佐々木とつながるという事は、
北条とつながるという事は、

…と考えると、その当時の幕府の重要人物とは大方つながっていることになりはしないだろうか。

今朝、入ってきたメルマガ(佐々木哲氏)では、佐々木信綱は九条氏の家礼でもあったという。↓

『信綱が東使になったことは、彼が有力御家人であるばかりではなく九条殿家礼であり、朝幕間の交渉を期待されていたからであろう。』

等々、今回のメルマガも今書いている時代と重なっていて、おもしろい!!


~~~*~~~

では、因幡国の国司や地頭などに、関係者がいたために富木氏前身が派遣されて、『富木氏』が誕生したのではないだろうか・・・・。と考えるに、そこに中原(大江氏)が派遣されたのでは、と思うのである。(若しくは大江親広の養父であった源通親の久我氏・堀川氏)

大江広元の履歴を見ると「因幡前司」と大日本史料総合データベースだけでも48件もずらりと出てくるのである。
しかし建久6年までで、その後は出てこない。
という事は、建久6年以降には新しく他の人に決まったのではないだろうか?
その時に因幡守は佐々木高綱になったのか?

ところが高綱の文書は出ていない。
高綱の下で、富木氏が派遣されていたことも考えられる。

(私は前々の記事で、もっと以前から因幡国にいたのでは…と書いたが、因幡国司代、地頭代?はこの頃、親子で何代も続いている例はないという情報もあり、考え直していたところ。)

一代のみの赴任であったと考え、国衙の目代と考えると、しかも1249年に東国へ戻ってきたところを見ると、高綱の後の時代に目代として赴任していた可能性もありそうである。

その頃の因幡国法美郡がどのようだったのかを見て行きたい。


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千葉氏と中原氏との関係からの考察(3)千葉介と源頼信と大中臣成平

2019-02-27 | 千葉氏

https://yatanavi.org/text/k_konjaku/k_konjaku25-9

今昔物語集
巻25第9話 源頼信朝臣責平忠恒語 第九

今昔、河内守源頼信朝臣と云ふ者有り。此れは多田の満仲入道と云ふ兵の三郎子也。兵の道に付て、聊にも愚なる事無ければ、公も此れを止事無き者にせさせ給ふ。然れば、世の人も皆恐じ怖るる事限り無し。

而るに、頼信、常陸守に成て、其の国に下て有ける間、下総国に平忠恒と云ふ兵有けり。私の勢力極て大きにして、上総・下総を皆我ままに進退して、公事をも事にも為ざりけり。亦、常陸守の仰する事をも、事に触れて怱諸(ゆるかせ)にしけり。守、大きに此れを咎めて、下総に超て、忠恒を責めむと早るを、其の国に左衛門大夫平惟基と云ふ者有り。此の事を聞て守に云く、「彼の忠恒は勢有る者也。亦、其の栖(すみか)轍く人の寄るべき所に非ず。然れば、少々にては世に責められ侍らず。軍を多く儲てこそ超させ給はめ」。守、此れを聞て、「然りと云とも、此ては否(え)有るまじ」と云て、只出立に出立て、下総へ超ゆるに、惟基、三千騎の軍を調へて、鹿島の御社の前に出来会たり。

然許白く広き浜に、廿町許が程に、朝の事なれば、弓の限り朝日に鑭(きら)めきて見へけり。守は館の者共・国の兵共打具して、二千人許ぞ有ける。然れば、此の軍共の勢、子島の郡の西の浜辺を打立たりけるが、人とは見えで、鑭々と為る弓のみして、雲の如くなむ見へける。「世の昔物語にこそすれ、未だ此許の軍勢見ず」とぞ、人、奇異(あさまし)がりける。

衣河の尻、やがて海の如し。鹿島・梶取(かとり)の前の渡の向ひ、顔見へぬ程也。而るに、彼の忠恒が栖は内海に遥に入たる向ひに有也。然れば、責に寄るに、此の入海を廻て寄ならば、七日許廻るべし。直ぐに海を渡らば、今日の内に責められぬべければ、忠恒、勢有る者にて、其の渡の船を皆取り隠してけり。

然れば、渡るべき様も無くて、浜辺に皆打立て、「廻べきにこそ有ぬれ」など、若干の軍共思ひたるに、守、大中臣成平と云ふ者を召て、小船に乗せて、忠恒が許に遣す。仰せて云く、「『戦はじ』と思はば、速に参来(まうでこ)。其れを尚用ゐねば、否返り敢へじ。只、船を下様に趣けよ。其れを見て渡らむ」と。成平、此れを承て、小船に乗て行ぬ。

而る間、惟基、馬より下て、守の馬の口に付くを見て、若干の軍共、馬よりはらはらと下て持行く、風、草を吹くに似たり。下るる音は風の吹が如し。

而る間、成平、船を下様に趣く。忠恒、守の返事を申ける様、「守殿、止事無く御座す君也。須く参るべしと云ども、惟基は先祖の敵也。其れが候はむ前に下り跪きてなむ否候ふまじき」と。亦、渡に船無くして、何(いかで)か一人は参らむ」と云ければ、船をば下様に趣くる也けり。

守、此れを見て云く、「此の海を廻りて寄らば、日来経なむとす。然れば、逃ぐにもなむ、亦寄らるまじき構をもしてむ。今日の内に寄て責むこそ、彼奴は安(あん)の外にて迷(まど)はめ。其れに、船は皆隠したり。何がせむと為る」と、若干の軍共に仰する時に、軍共の申さく、「他の事候はず。廻てなむ寄らせ給ふべき」と。守の云く、「頼信、坂東は此度なむ始めて見る。然れば、道の案内知るべきに非ず。然れども、家の伝へにて聞き置きける事有り。『此の海には、浅き道堤の如くに、広さ一丈許にて直く渡りけり。深さ、馬の太腹になむ立つなる』。其の道は定めて此の程にこそ渡たらめ。此の軍の中に、論無く其の道知たる者有らむ。然は前に打て渡れ。頼信、其れに付て渡らむ」と云て、馬を掻早めて打寄ければ、真髪の高文と云ふ者有て、「己れ度々罷り行(あり)く渡り也。前馬仕らむ」と云て、葦を一束従者に持せて、打下て、尻に葦を突差(ついさし)々々渡りければ、此れを見て、他の軍共も悉く渡りけるに、游ぐ所二所ぞ有ける。軍共、五六百人許渡りにければ、其の次になむ守は渡ける。

多の軍の中に、三人許なむ此の道をば知たりける。其の外は露聞にだに聞かざりければ、「此の守殿は、此の度こそ此方は見給ふらめ。其れに我等だに知らぬに、何かで此く知り給ひけむ。尚人には優れたる兵也」となむ、皆思て、恐ぢ合ける。

然て、渡り持て行くに、忠恒は「海を廻てぞ寄来て責め給はむ。船は取隠したれば、否渡り給はじ」と、「此の浅き道はた否知られじ。我のみこそ知たれ。廻らむ程に日来経ば、逃なむには否責め給はざらむ」と静に思て、軍調へ居たる程に、家の廻に有る郎等、走らせ来て、告て云く、「常陸殿は此の海の中に、浅き道の有けるより、若干の軍を引具して、既に渡り御するは何がせさせ給はむと為る」と、横なはりたる音持て、周章(あわてて)云ければ、忠恒、兼ての支度、大きに違うて、「我れは責められぬるにこそ有なれ。今は術無し、術無し。進(たてまつ)らむ」と云て、忽に名符を書て、文差に差て、怠状を具して、郎等を以て小船に乗せて、向て寄せたりければ、守、此れを見て、名符を取らしめて云く、「此許名符に怠状を副て奉れるは、既に□□しにたる也。其れを強に責め罸つべきに非ず」と、「速に此れを取て返すべき也」と云て、馬を取て返しければ、軍共も皆返りにけり。

其の後よりなむ、此の守をば、「艶(えもいは)ず極(いみじ)の兵也けり」と知て、皆人、弥よ恐ぢ怖れけり。其の守の子孫、止事無き兵として、公けに仕りて、于今栄て有となむ語り伝へたるとや。

===*===

訳が下記のアドレスにありました!
合戦になりそうな雰囲気がリアルに感じ取れます。
しかも源頼信、カッコイイ!


https://blog.goo.ne.jp/miyabikohboh/e/bc5a7512c1a7eea3e84cfb94be47810f?st=0#comment-form


  
~~~*~~~

平惟基は『小右記』の藤原実資に仕えている。(平維幹の事であるようだ。)

他の3人(千葉介忠常と源頼信と大中臣成平)はここでつながっていたのだ。
この大中臣成平であるが、中原成道と関係がありそうであるが…




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千葉氏と中原氏との関係からの考察(2)

2019-02-27 | 千葉氏

千葉氏と中原氏との関係(1)の記事に「常将の父親である千葉介忠常は在京していた時期もあり、頼信の家人」と書いた。
もう一人思わぬ人物も同じ源頼信に仕えていた。http://zan35441.on.coocan.jp/sub18.html
「比企宗躬」

この人が比企尼の嫁ぎ先の「比企氏」であるのでは?と思って調べてみると意外なことがわかった。
http://www.asahi-net.or.jp/~SH8A-YMMT/hp/japan/toshu05.htm

比企家
藤原氏魚名流
1 比企宗家    
2 比企宗末    
3 比企宗躬    
4 比企宗妙    
5 比企宗陳    
6 比企宗職    
7 比企宗員    
8 比企遠宗    
9 比企能員 十三人の合議制,信濃守護,上野守護
比企家《若狭》

藤原氏魚名流
1 比企朝宗越前守護,越中守護,越後守護,佐渡守護,能登守護,加賀守護,若狭守護

~~~*~~~

比企氏は「藤原氏魚名流」であるようだ。
立派な系図も↓
http://www.geocities.jp/keizujp2011/suinin.html

ともかく、比企氏と同僚?だったかもしれない「千葉介忠常」だったことがわかった。

比企氏が秀郷流の中から出てきた説もある。

魚名流藤成子孫(秀郷流)http://www.geocities.jp/okugesan_com/hidesato.htm

魚名流の中に秀郷流が入っていたのだ。さらにその中に「蒲生氏」があり、蒲生惟賢(後俊賢。蒲生太郎。権七。仕右大将家領江州蒲生郡。)の妻は佐々木定綱の娘であった。






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