ここ2・3日、紀氏の系図を探している際に出会った「古系図集」を見ていた。
その中に源基綱の息「信綱」比巴(琵琶)妙音院入道太政入道師也 とあったので、調べてみると、そこには新しい世界が待っていたのである。
音楽の伝承の世界。
ここでは琵琶だが、他に篳篥・笛・箏・歌唱などこれまでとは違う伝承の系図もあることを知った。
琵琶に関しては「琵琶血脈」という。
…と言っても見つけたばかりなので良くはわからない。
この源基綱の父である源経信は琵琶の桂流の始祖である。
その経信の師が【源資道(すけみち)】で、源政長の父である。
そして政長は有賢の父である。
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E6%9C%89%E8%B3%A2
政長のwikipediaにもちゃんと「資通より学んで笛や和琴、琵琶に通じ、それを子の有賢や刑部卿・藤原敦兼らに伝えた。」と書かれていた。
で、その資通から二つの流派に分かれていて、一つが経信の桂流。もう一方が西流となって、二人於いて「琵琶冠者」藤原孝博へとつながっていく。
孝博は次に大納言藤原重通に伝え、重通は「中原有安」に伝えている。
また孝博は法名信西(藤原通憲)へと伝える。琵琶というキーワードで調べるとまた違うつながりがそこにあったのである。
信西のことはあまり調べたことがなく、今回初めて知ったのだが「藤原実範」の曾孫にあたるのだそうだ。
通憲の時代「当世無双の宏才博覧と称された博識を武器に院殿上人、院判官代とその地位を上昇させていった。」とあるように有能だったようだ。
「通憲の願いは曽祖父・祖父の後を継いで大学寮の役職(大学頭・文章博士・式部大輔)に就いて、学問の家系としての家名の再興にあった。ところが、世襲化が進んだ当時の公家社会の仕組みでは、高階氏の戸籍に入ってしまった通憲は、その時点で実範・季綱の後を継ぐ資格を剥奪されており、大学寮の官職には就けなくなってしまっていた。また、実務官僚としてその才智を生かそうにも、院の政務の補佐は勧修寺流藤原氏が独占していた。」とあり、失望してしまう。
そして出家に至るようであるが、そのころに笛・今様・舞踊・琵琶などに熱心になっていったようで、音楽資料もかなり集めているようである。
これは、25ページにわたる「藤原通憲と琵琶」という論文よりのご紹介なので、皆様も是非どうぞ。http://ci.nii.ac.jp/naid/110007172919
信西となってからと思うが、有安に教えてもいる。
頭がカチカチの人だったというイメージが崩れ、音楽青年というイメージが立ち上がり、楽しい。
で、この信西「高階重仲女」が妻である。
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E9%AB%98%E9%9A%8E%E9%87%8D%E4%BB%B2
その中に源基綱の息「信綱」比巴(琵琶)妙音院入道太政入道師也 とあったので、調べてみると、そこには新しい世界が待っていたのである。
音楽の伝承の世界。
ここでは琵琶だが、他に篳篥・笛・箏・歌唱などこれまでとは違う伝承の系図もあることを知った。
琵琶に関しては「琵琶血脈」という。
…と言っても見つけたばかりなので良くはわからない。
この源基綱の父である源経信は琵琶の桂流の始祖である。
その経信の師が【源資道(すけみち)】で、源政長の父である。
そして政長は有賢の父である。
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E6%9C%89%E8%B3%A2
政長のwikipediaにもちゃんと「資通より学んで笛や和琴、琵琶に通じ、それを子の有賢や刑部卿・藤原敦兼らに伝えた。」と書かれていた。
で、その資通から二つの流派に分かれていて、一つが経信の桂流。もう一方が西流となって、二人於いて「琵琶冠者」藤原孝博へとつながっていく。
孝博は次に大納言藤原重通に伝え、重通は「中原有安」に伝えている。
また孝博は法名信西(藤原通憲)へと伝える。琵琶というキーワードで調べるとまた違うつながりがそこにあったのである。
信西のことはあまり調べたことがなく、今回初めて知ったのだが「藤原実範」の曾孫にあたるのだそうだ。
通憲の時代「当世無双の宏才博覧と称された博識を武器に院殿上人、院判官代とその地位を上昇させていった。」とあるように有能だったようだ。
「通憲の願いは曽祖父・祖父の後を継いで大学寮の役職(大学頭・文章博士・式部大輔)に就いて、学問の家系としての家名の再興にあった。ところが、世襲化が進んだ当時の公家社会の仕組みでは、高階氏の戸籍に入ってしまった通憲は、その時点で実範・季綱の後を継ぐ資格を剥奪されており、大学寮の官職には就けなくなってしまっていた。また、実務官僚としてその才智を生かそうにも、院の政務の補佐は勧修寺流藤原氏が独占していた。」とあり、失望してしまう。
そして出家に至るようであるが、そのころに笛・今様・舞踊・琵琶などに熱心になっていったようで、音楽資料もかなり集めているようである。
これは、25ページにわたる「藤原通憲と琵琶」という論文よりのご紹介なので、皆様も是非どうぞ。http://ci.nii.ac.jp/naid/110007172919
信西となってからと思うが、有安に教えてもいる。
頭がカチカチの人だったというイメージが崩れ、音楽青年というイメージが立ち上がり、楽しい。
で、この信西「高階重仲女」が妻である。
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E9%AB%98%E9%9A%8E%E9%87%8D%E4%BB%B2
琵琶の系譜については、鎌倉時代にかかれた文机談が有り、中原有安については、鴨長明の師匠として知っております。
源経信については、和歌の世界でも子の俊頼、孫の俊恵に影響を与え、琵琶についても琵琶譜を残し、漢詩も多数残しているそうです。
それくらいしか知りません。
コメントありがとうございます。鴨長明の大事な師だったのですね。
googlebooksの「[新訳]方丈記: 乱世を生き抜くための「無常観」を知る」左方郁子著 より
「・・・もう一人の師は、「みなしご」となった長明に「重代の誇りをもて」と励ました中原有安である。有安は琵琶、笛、そう箏、たい太こ鼓、ろう朗えい詠その他、万般にすぐれた音楽家で、右大臣九条兼実も琵琶を習ったことがあるという。晩年には宮廷のがく楽所預という重職を務めた。管絃の指導だけでなく、長明の「みなしご」としての境遇を温かく理解して、折々に適切な忠告を与えている。長明が四十代のとき死去した。 この有安のおかげもあって、・・・」
良い師であったようです。