百済武寧王の世界 海洋大国大百済 蘇鎮轍 氏 著作 彩流社より、気になる点を書き留めておきたい。
倭の五王の『武』に関してである。
本書では武寧王が倭の五王の中の『武』であるとの説であり、五王の先代に『倭王旨』がいるという。
其の事は七支刀の銘文から解釈できるそうである。
「秦△四年△月十六日丙午の正午に銑鉄を百回もたたいて七支刀を造る。この刀は百兵(災殃)を避けることができ当然候王(旨)に与えるべきだ。
先世以来だれもこのような刀を持っていなかったが百慈王は世々に寄生聖音(吉祥語)があり倭王旨のために造った。後世にながく伝えよ。」
『七支刀は百済(漢城百済)後で造られ、またそこから百慈王が直接それを彼の候王(倭王旨)に賜わったものであるとみなければならない。』と書かれている。
銑鉄(せんてつ)の銑:純度が低い鉄という意味がある。艶がある金属という意味もある。
百慈王が「大王」であり、倭王旨が「候王」
百済に本拠地があって、倭王として日本の中に百済の支店のような場所があり、そこに派遣していたのかもしれない。(仮想)
更に本書は、倭王旨とは誰なのか?と論を進めている。
が、私には「百慈王」の方も情報が無い。
本書よりだが、
「七支刀銘文にみる「倭王」の名は「旨」という一字だけの王名であって、これは歴代百済王家の単字名に王名である余句(近肖古王)、余毗(毗有王)、余映(典支王)、余慶(蓋鹵王)と余昆(昆支王)と同じもので、彼は多分百済王家の成員の一人であるとみられる。」
「彼は百済の骨族(王族)として「余旨」(よし)という名をもって…」とある。
上記の 典支王の典は、腆の字かと思われる。
再び本書から
『「倭の五王」という「讃」をはじめ「珍」・「済」・「興」と「武」ら五王の名が出てくるが、これらの名は始終百慈王の候王である倭王旨の名と同じで、百済王家の単字名の王名である。だから、これら「倭の五王」と旨との関係を考えてみないわけにはいかない。‥‥その点に対し、文定昌は「倭王武」の歴史的活動と姓が扶余氏という点から推して「倭の五王は百済系である」と主張したことがあるが、それは適切は指摘だと思う。」
以上のことから、私も倭の五王は百済の王族と思っているのだが、一方で、日本の中では倭の五王の「武」は、雄略天皇である・・・などが、有力なのだそうである。
その理由は、以下にあるようなのだが…
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80
wikipediaより
雄略天皇については雄略5年が西暦461年にあたることが研究者の間で一致を見ている。これは雄略5年条に百済の武寧王の誕生記事があり、その干支(辛丑)が武寧王陵出土の墓誌の崩御年である癸卯(523年)および年齢(62歳で死亡、辛丑の年から癸卯の年まで還暦を挟んで62年)と整合することによる[108]。
これを読むと、倭の五王の武=武寧王=雄略天皇…とはならないので、複雑な気分である。
雄略五年に武寧王が誕生…ここがどうも引っかかる。
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龍神と百済は深く繋がっている。
以前書いた記事なのだが、気になることがあるので、ココに貼っておく。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/a7b065190321b0ded47c775ce017ae4d