富木氏がいたと思われている「富城郷」は法美郡にあった。
以前、いただいたメールよりご紹介したい。
現在の鳥取市には富城(木)という地名、字名は残されておりませんが、大正7年まで現在の国府町谷から中河原という地区が「登儀村」という自治体名で呼ばれていました。
地理的には宇倍神社近辺より、南に位置し、谷の奥になります。
『国府町史』より簡単な地図もお送りします。
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「罵城」という郷名自体は、平安時代の『和名類聚抄』にさかのぼるってみることができます。
中世には、冨城中太入道の所領であった「冨木郷」があったと考えられています。
なお、「中山法華経寺文書」には、所従、つまり従者の帰属をめぐる訴状が残されています。
冨城蓮忍はのちに関東へ移住しますが、彼の下で働いていた従者が、息子常忍に譲られるべきところを、当人たちは地元(因幡国)にのこっていたため、因幡国一宮(宇倍神社)が拘留した、もしくは一宮で働いていたと考えられ、そのことに対する訴状とみられます。
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wikipedia 法美郡 より
中世から近世
鎌倉時代に成立した『吾妻鏡』に法美郡として登場する。一次史料としては国府町にある法泉寺の鰐口に明徳4年(1393年)「因州法美郡広瀬郷」とあるのが最古。
鎌倉時代
平安時代の終わりごろから鎌倉時代にかけての史料からは、因幡国内では荘園や武士の進出による影響は緩やかで、朝廷の権威の下にある国衙の支配力が比較的健在のまま公領として維持されていたことが伺える。とりわけ法美郡ではそれが顕著で、大萱郷・広西郷・富木郷(罵城郷)・津井郷・高野郷などは古代の名前もそのままに鎌倉時代以降も継続した。これは他郡との比較上、法美郡の大きな特徴である。これらの地域では、在地領主が朝廷の権威に服することで、古代からの勢力図が鎌倉時代初期にも生き残ったものと考えられている。
その例外となったのが服部郷と稲羽郷であるが、服部郷は服部庄として、稲羽郷は宇部荘として、いずれも宇倍神社の荘園となっている。宇倍神社は古代からの豪族である伊福部氏の氏神であり、伊福部一族が神職も兼ねていたことから、郡内の他地域と同様に、平安時代以前の勢力が鎌倉武士の進出を阻んだものだと解されている。
しかし承久の乱(1221年)を境に、東国武士の進出が顕著になった。この戦乱では当地の勢力の多くは後鳥羽上皇に与して戦い、敗戦によって領地を奪われ没落、所領は東国の御家人に与えられたと推定される。この時期以降、伊福部吉氏も宇倍神社の神職としてしか登場してこなくなる。ただし宇倍神社が領していた荘園は天皇家(宣陽門院)に寄進されて生き残った。服部庄は承久の乱のあいだ一時的に押領されたが、戦後は天皇家に返還されている。
鎌倉時代における郡内の郷里については、『因幡民談記』(1688年)内の「郡郷保庄記」が手がかりとされている。同書は江戸時代に完成したものだが、「郡郷保庄記」部分の原型は鎌倉時代におおむね完成していたと考えられている。これに掲載されているのは次の通り。
郷 - 大萱郷、富木郷、広西郷、中ノ郷、稲羽郷、津井郷
保 - 矢津保、惣社保
庄 - 服部庄、ニ所庄
寺社領・その他 - 楠城、今衣社、法華寺、国分寺、高田社、造生寺
富も鳥。ホーホケキョて鳴くのはウグイスかあ。
伝説の貝の神の姉妹ですけど、鳥っぽいんですよ。
確か命を生き返らせる技持っている鳥。
ウグイスの糞ってお顔に塗ると美人になるとかいうんですいね。なんかそんな風評で捕まって都に運ばれて誰かの妃になってそうな?
因幡なので白兎でもいいんですけど、鳥っぽく思うんですよね。鳥取で鳥捕まえてきたのは誰だっけ?
奈良の佐保だったか?もっと違う所そう飛鳥に誰かそんな感じの姫いたなあ?
ちょっと探ってみますね。
古代や神代の伝説がなんかにごっちゃに一気の中駆け巡ってます。ひとまず明日香に向かいます。