復習を兼ねて、頭にあることをOutputおこうと思う。
以下はあくまでも私の考えで、どこにも証拠はないのではないかと思う。
まず金売吉次は橘次季春という説があり、また吉次信高という説もある。
私の想像では、深栖光重の家司であった橘氏かと思う。
深栖光重はもともとは土岐光信の息であり、源頼政の義理の兄弟となった人である。
そして、光重は「波多野御曹司」を名乗っている。
その息は「堀頼重」である。
堀氏は堀弥太郎景光として義経の郎党となっていが、糟屋有季に捕られ、義経が南都興福寺「聖弘得業」に匿われていることを白状し、その後殺されてしまっている。
この聖弘のことに関してはwikipediaに載っている。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BC%98
堀弥太郎景光は、「奥州の砂金と京都の物品との交易を行った京三条の商人で、名を吉次信高といい、堀弥太郎(やたろう)ともいう。」…と言う説もあり実際のことは分からない。
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さて、その深栖氏、堀氏が匿われた先は「下河辺荘」となっている。
それは何故なのだろうか。
下河辺行義のwikipediaにその訳となりそうなことが出ていた。
【藤原秀郷の流れを汲む太田行政の子として誕生。兄に小山政光。
『平治物語』に源頼政の郎党として見え、頼政と共に治承4年(1180年)の以仁王の挙兵に従った。頼政の父・源仲政が下総守であり、頼政も任地に下向していた事から主従関係を結んだと見られる。下河辺荘は頼政の仲介により鳥羽院から美福門院に寄進され、さらにその皇女暲子内親王に伝領されて八条院領となったと考えられる。行義は荘官として下総国古河に住み、下河辺荘を管理した。
『平家物語』巻四で頼政とその一族が敗死した時、頼政の子・仲綱(または頼政)の首を「下河辺藤三郎清親」が大床に投げ入れて隠したとあり、茨城県古河市の頼政神社には、頼政の郎党が主人の首を持って逃げ、この地に葬ったとする伝承がある。
その後の消息は不明だが、子の行平・政義は源頼朝の挙兵に従い、鎌倉幕府創設期の功臣として活躍した。】
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深栖氏・堀氏は、この人を頼って行ったのだと思う。
さらにこの下河辺行義は元の名を【太田行義】という。
この行義の兄は【小山朝政】である。
小山朝政といえば、妻は八田宗綱娘・寒河尼である。
さらに息に「宇都宮頼綱(宇都宮業綱子)」がいる。
中原氏とも当然つながる宇都宮氏である。
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そして、昨日の記事に書いた
西念の所領を「橘次(右衛門尉?)光貞に譲り渡す。」という文書である。
この光貞は、深栖光重の息なのではないだろうか?
佐々木盛綱は、同じ波多野にいた事もあるのではないだろうか?(中原親能も波多野にいた。)
娘婿が光貞とか、何か理由が、つながりがあるのではないだろうか?
日本通信百科事典によると
『土岐光貞 (深栖冠者) : 土岐光信の孫、光重の子、重清・重高・頼重の弟、仲重・保綱の兄。 』
土岐・深栖・源・下河辺・宇都宮・小山・寒河尼、そして、橘次をつなげると、このようになる。
そうなってくると、小山氏が熊野で「上網」となって活躍したこととつながってくるように思えてならない。
九里氏も、その動きに伴っているように思えてならないのだ。
今まで堀重頼と間違って書いていたかもしれない。正しくは堀頼重!!である。
頼政って全く知らなかったんですけど神社も色々あるんですね!その土地に慕われた何かありますね。
一度昔夢見たことありまして、三島から古河行かないといけないような感じで電車乗り継いで行こうとする夢でした。当時茨城の古河は気になっていたのと夢見たのが三島行った時かその前に行こうとしていた時かでした。
頼政神社って足柄にもありそうですし、おばあちゃんの故郷の高崎にもありそうですよ。何で?面白くなってきますよ。高崎には古墳もありますよ、今年群馬八幡には行ったけど今度古墳行ってみますよ。佐野藤岡近いなら古代も何か面白くなりますよ。
単純に足柄の神社と古河の神社を繋いでみたらまた通る所が変な確信もあり何か個人的ヒントになりそうです。246で伊勢原や町田も通るのも吉良さんの関わる所や稲城通って多摩川渡るのもかなり面白いです。
まだどんな人なのかも分からずですが、ちょっと進み過ぎてるようなのでこれくらいにしておきます。
怪しいですね。