ひとつ思い出しておきたいメルマガがあったことに気が付いたので、
以前いただいていた佐々木哲氏のメルマガ。
九里と中原周辺についての物である。すべてが関係するので全文をご紹介したい。
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江州中原氏と九里氏
~佐々木高綱の因幡守護補任との関係
九里氏の先祖を調査されている方がいて、多くの質問をうけている。高校では日本史を勉強していなかったというが、東大史料編纂所をはじめ多くの資料を調べており、その過程で江州中原系図のなかに九里氏を発見した。また同系図の九里大夫経久に「蓮忍入道」という記述を発見し、有力御家人千葉氏の執事で、日蓮の大壇越である富城五郎入道常忍の父富城中太入道蓮忍と同一人物ではないかと推定している。今回はこれをもとに、私見を述べたいと思う。
江州中原系図は、一般的には『続群書類従』に収められているものが有名で、その系図では崇峻天皇(長谷部王)から始まる。しかし鈴木真年が編集した『諸氏家牒 皇孫上』に所収されている「近江国御家人井口中原系図」によれば、天武天皇の皇子舎人親王から始まる。舎人親王―船親王―栄井王―豊前王―弘宗王と続き、弘宗王の子女である長谷・時宗・時弘・時正・篤時・正子・宗子らが中原朝臣を給わった。江州中原氏は先祖中原朝臣長谷の名乗りから、長谷部王である崇峻天皇に出自を求めたのだろう。
中原氏は長谷―長城―是俊―俊興と続き、俊興が天慶二年(九三九)三月はじめて近江国伊香郡に居住して「余語大夫」と名乗った。その後、俊行(近江権介・押領使)―成経(丹後守)―俊元(伊香郡司)―成俊(伊香三郎)―経行(伊香郡司・押領使・越前権介)―光経(伊香大夫・押領使)―経盛(中大夫)―経貞(四郎権守)―経賢(太郎大夫)―賢清(中太)―経任(改橘氏、橘次)―経久(九里大夫、蓮忍入道)と続いて、九里氏はこの経久から始まる。
中原氏は伊香郡司・押領使を歴任するとともに、近江権介や丹後守・越前権介に補任されており、北近江から北国にかけて勢力を有していたとわかる。押領使は東国の警察権を掌握する地位であり、江州中原氏が軍事力を有していたことが分かる。これに対して佐々貴山公や清原氏・大友氏が勤めた近江追捕使は、東国を抑える近江の軍事指揮者であり、陸奥と関係が深い。警察権と軍事指揮権のちがいがある。
また江州中原氏は、余語大夫・伊香大夫・中大夫・九里大夫・四郎権守・太郎権守などの名乗りから、国衙(国役所)で常勤していた在庁官人であったと推定できる。彼らは国司が派遣した目代の指導の下で事務を勤めていたが、必ずしも一方的に国司に従っていただけではなく、ときには反抗することもあった。江州中原氏は在庁官人であり、諸国の中原氏の中にも十市首流中原氏ではなく江州中原氏がいた可能性がある。
そのなかで、九里氏の祖経久が蓮忍入道と名乗っていたことは注目できる。千葉氏の執事富木五郎入道常忍の父が、富城中太入道蓮忍だからである。九里経久入道蓮忍とは中原姓と法名が見事に一致している。
富木常忍の本貫は因幡国法美郡富城郷であり、関東に移住した父富城入道蓮忍から所従を譲渡されていたが、その所従が因幡一宮(宇倍神社)の公文元富によって拘束されてしまった。常忍は所従を引き渡すよう、宇倍神社政所に訴え(『日蓮宗全書』所収沙弥常忍訴状)、さらに鎌倉に訴えた。鎌倉では事務官僚としての経験を評価されて千葉氏の執事を勤めるとともに、鎌倉で日蓮と出会い大壇越になっている。
常忍の本妻は千葉氏被官太田乗明の姉であり、後妻(富城殿女房尼御前)は駿河国重須の出身で、始め伊予守橘定時の後家だったが、一子(のち伊予阿闍梨日頂)を連れて富城常忍に再嫁した。この橘氏については、江州中原系図で中原常久入道蓮忍の父経任が橘氏に改正して「橘次」と名乗ったことと関係があるかもしれない。そうであれば経任―蓮忍―常忍の名の親近性が気になる。経と常の訓読み、任と忍の音読みが共通していよう。
父蓮忍は常忍に所従を譲渡すると関東へ移住しており、本国は因幡ではなく、事務官僚として因幡に赴任したと考えられる。公文元富が裁判で有利であり、元富が富城郷の開発領主の子孫であろう。公文は荘官の一つで文書管理を担当する事務官僚であり、事務官僚のほか開発領主も勤めた。
実は因幡巨濃郡岩井荘には幕府奉公衆三上氏があり、三上近江入道(周通)と称していることから近江出身とわかる。この奉公衆三上氏が沙沙貴神社所蔵佐々木系図に見える六角氏庶子の三上氏であろう。三上氏の因幡入部の時期は不明だが、室町中期に幕府奉公衆三上氏として現れ、因幡岩井荘を領している。近江佐々木氏、あるいは三上祝の子孫近江三上氏の所領がもともと因幡にあったとも考えられる。
富城入道蓮忍が九里経久入道蓮忍と同一人物であれば、佐々木高綱の因幡守護補任を裏付けられよう。
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忘れていたので久々に見ると新鮮である。
私がやって来た事は、その「富木氏」はだれなのか?だったのだが…
そうか、佐々木高綱の配下にいたのかどうかを調べなくてはいけなかったらしい。
仕切り直し…
どのような形で佐々木高綱の配下にいたのか。
佐々木高綱、あの有名な名馬の生食(いけづき)話の他は資料が少ないような気がするのだが、
親鸞の弟子になっていることは確かであろうと思う。
三男の高重が親鸞についていて「西信」という名になっている。
そこで重源に帰依していた高綱は、西信に会いに来た親鸞に偶然出会い、親鸞も高綱のことを聞き及んでいて、意気投合したことになっている。(どこかのお寺のHPにあった。)同じ法然の弟子であった重源と親鸞。
佐々木高綱の息と娘は重綱、光綱、高重、女子(寂光院院主)
この寂光院院主については調べたことがなかったので、そこに注目して見ようと思う。
そして次男光綱! 佐々木隠岐守義清の養子になっている。
出雲能義郡におり、野木氏祖である。
そのためか乃木将軍の植えた松が近江八幡市安土町常楽寺の沙沙貴神社の境内に「乃木大将御手植の松」として残っているのだそうだ。
娘は建礼門院の跡を継承して大原寂光院主になっているそうなのだが、平氏の関連のお寺に何故??
しかも高綱は法然系(浄土宗)と思うのだが…。
高綱が没してから寂光院に入ったのかもしれないが…(建礼門院も高綱と同じ年に亡くなっている1214年)
【建礼門院坐像は、木造、ヒノキ材の寄木造で、女性像には珍しく結跏趺坐の座り方で、浄土宗の墨染めの衣を着している。現在の寂光院は天台宗であるが、中近世には天台・浄土兼修の尼僧寺院であったからである。】と寂光院のHPにもあったので、浄土宗の女性も入れたことがわかった。
そして、宗教には「平氏」も「源氏」もなかったのかもしれない。
この高綱。
実は九里氏の裔の方に「高綱の末裔」との話も聞いている。
但し、そのようにおっしゃる方が多いそう。(平家物語や歌舞伎の関係?)
だが、ココは本当かも知れないと思って、
何かしら高綱と関係があったかもしれないと思って、進んでみます!
私の場合は全く根拠がない妄想程度ですけど、過去の人々の残した物での検証とても凄いですね。
今後も楽しみにしております。6697
何だか、上手く回転してきてます。
りひと様のヒントに刺激を受けて、良い方向へ~!
感謝です!!!
兄は隼人の方に繋がるようですから、父の周りにも似ている気がします。個人的に隼人は苦手な部分もありますけど。
あとお父様が火酢芹命さんって事で、娘はスセリ姫にもなりそうです。個人的のスサノオの娘のスセリ姫は八上姫派なので苦手なのですけど八上姫は木俣に子供隠したくらいですから木との接点もありますから同一神かもしれませんよ。
そもそもセリなら植物ですし、噛まないとすっぱいのも分からないですし木の信仰か山の信仰等がないと得られない知識です。歯にも良いのかも?
うちの父は、なんだか雑草良くくわえていましたよ(笑)。
スセリ姫だと春日さんにも通じますよ。あの地もうちの関係と関連あったのなら子供のハイテンションも意味ありそうに思いますね。
ちょっと入れておきますね。父の関係は火須勢理命(火酢芹命)さんの関係だと納得しちゃうように思いますね。4164
あと三上祝って三上山にも大神神社にも関係してきそうですよね。で祝いですから喜びの方の舞いも関係してきそう。父の流れには、伊豆の白濱神社で出会った三番そうばかりです。あと乃木さんの関係だと王子稲荷も凧のお守りで関係してきます。
どうも私の路線重源さんのルート好きみたいです。
五輪塔のお墓の写真みて、こちらで重源検索で出た記事見てます。
重源のバイタリティーがうらやましくもあり、素晴らしいと思っていて、これが信仰の力でもあるのかな?なんて思っています。