宇都宮宗房の息「源季長」は「中原季長」である。
このことから宇都宮氏と、能登若山庄の領家【源季兼】、小野宮流の藤原経通とがつながった。
季兼の祖父「清長」の母親が、近江国佐々木氏の「源扶義」の弟 源雅通娘であることがわかった。
系図としては、清長ー俊兼ー季兼ー季長・頼暹 となる。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2/s/源季兼
また、中原朝親を調べていて、大中臣朝親・中原朝親がいることがわかった。
美作朝親が「中原氏」ではないかもしれない暗雲が垂れ込めている。。。
中原朝親(1194年~1248年)であり、初名が朝親でのちに親朝と名前を変えている。
塩谷朝業の息である。
父は宇都宮成綱(初名:業綱) 母は新院蔵人平長盛女 である。
養父が塩谷朝義 妻は塩谷朝義女
塩谷朝業は宇都宮朝綱の孫となる。
そして塩谷朝義の父は、塩谷惟頼である。
これよりの父は惟純(惟澄)(別名:堀江)1126年~不明
惟純の父、塩谷頼純(別名:堀江頼純、堀江三郎)。1108~1128年
その頼純の父は、源義親である。
この頼純は、可哀想な人生である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/塩谷頼純
~~~+~~~
一昨日届いた佐々木哲先生からのメルマガに「一条流藤原氏(伊尹流)と宇多源氏扶義流、および小野宮流藤原氏(実頼流)の関係にもういちど注目すると、小野宮流藤原資平の養子肥後守義綱(尊卑分脈)が見つかる。」とココだけ読むと暗号だが、うれしい情報であり、九里氏に関してもヒントとなるのではないかと思った!
このことから宇都宮氏と、能登若山庄の領家【源季兼】、小野宮流の藤原経通とがつながった。
季兼の祖父「清長」の母親が、近江国佐々木氏の「源扶義」の弟 源雅通娘であることがわかった。
系図としては、清長ー俊兼ー季兼ー季長・頼暹 となる。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2/s/源季兼
また、中原朝親を調べていて、大中臣朝親・中原朝親がいることがわかった。
美作朝親が「中原氏」ではないかもしれない暗雲が垂れ込めている。。。
中原朝親(1194年~1248年)であり、初名が朝親でのちに親朝と名前を変えている。
塩谷朝業の息である。
父は宇都宮成綱(初名:業綱) 母は新院蔵人平長盛女 である。
養父が塩谷朝義 妻は塩谷朝義女
塩谷朝業は宇都宮朝綱の孫となる。
そして塩谷朝義の父は、塩谷惟頼である。
これよりの父は惟純(惟澄)(別名:堀江)1126年~不明
惟純の父、塩谷頼純(別名:堀江頼純、堀江三郎)。1108~1128年
その頼純の父は、源義親である。
この頼純は、可哀想な人生である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/塩谷頼純
~~~+~~~
一昨日届いた佐々木哲先生からのメルマガに「一条流藤原氏(伊尹流)と宇多源氏扶義流、および小野宮流藤原氏(実頼流)の関係にもういちど注目すると、小野宮流藤原資平の養子肥後守義綱(尊卑分脈)が見つかる。」とココだけ読むと暗号だが、うれしい情報であり、九里氏に関してもヒントとなるのではないかと思った!
犬上郡に所用で行くついでに、以前紹介頂いた神社を巡って来ました。
残念ながら、御期待に沿うような社伝はありませんでしたが、愛知神社が惟喬親王ゆかりの伝承が紹介されて居ました。
来週京都を離れ、東京へ帰ります。
kunori様の紹介で都大路を駆け巡った事がとても思い出になりました。800年前の地名しか知らず、現在の通名とシンクロ出来たのが、成果でした。感謝申し上げます。
拙句
別れまで櫻の花よそのままに
京都をお離れになってしまうのですね。なんだか寂しいです。私の中では、京都=自閑さまになっておりましたので。
犬上郡愛知神社、ありがとうございます。惟喬親王のことは、何度も目にしながら、真剣に調べたことがなく、しかも最近、何かの本でも目にしたばかり。調べてみます。ありがとうございます。
東京に赴きになられても、闊歩なさってくださいませ!
ちょっと無理をして「返句」
鶏が鳴く東の櫻もそのままで
何の参考にもなりませんが、写真をアップしましたので御覧下さい。
>久斯日賀多神社は、愛知神社の中にあったのでしょうか?
境内の本殿の横に鎮座されておりました。
>愛知神社は川のそばで、
追加アップしました。
>滋賀県犬上郡豊郷町吉田で、間違いないでしょうか?
以前御紹介していた吉田は悠紀の里との事。町内看板を追加アップしました。
今晩は眠れないのでは・・・と思うほど、貴重な情報でした。調べてみましたら、和邇氏にも神功皇后にも接点があって、しかも中原氏が開発した土地に!ということなのです。本当にありがとうございました。