九里 【九里】を探して三千里

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土岐の長沢氏 と 里見の中沢氏 そして 波多野氏(山内首藤氏)

2020-01-19 | 雑記



http://kuwaichi.dip.jp/2_3_4.html
上記のアドレスの「鎌倉時代の武将たち」里見太郎義基と安井権守頼高  の記事を読んで、今まで調べて来た事とのつながりが感じられるため、書いている。

柏原の中沢系図に以下のようにあるそうで、その部分と上の義経の息・娘と絡んでくるのではないだろうかと思い、ココに出す。

正応年中依北条義時下知丹波桑田之府ニ移ル神尾山之城主とあり母九郎判官源義経女、右衛門尉光綱為猶子嫁レ義基

以下は大阪府豊能郡能勢の野木家に伝わる稲荷大明神の縁起文書  安井権守頼高

清和天皇之後胤多田満仲8代式部大輔兼摂津守源頼基ノ男、源姓安井権守源頼高 母ハ九郎判官源義経ノ女 承元元年2月12日誕生 右は安井家ノ先祖タリ 是ハ弥三右衛門殿持参書写


記事の文章をわたしの頭の整理のために書くと、

①里見(牛沢)重基は始め中沢を名乗っていた。
②重基の息の光助?(助光)が越中國長沢に住む土岐源氏の長沢光基の養子となる。(源光長―光経―光助の光助と思うが…別人ヵ?)
③光基の娘が里見(牛沢)義基の息 重宗に嫁いで生まれたのが基宗である。
基宗には男子が誕生しなかった。
越中長沢から養子に迎えたのが重義で彼は中沢を名乗らずに長沢を継承。長沢重義

「貞応3年の冬久下氏と同伴して丹波に来り多紀郡本目に住す」=1234年
とある。久下氏に随行してもらったという意味かもしれない。

「承久2年庚辰12月10日ニ鎌倉ヲ立テ同3年正月3日丹波國ニ着テ氷上郡栗作郷、多紀郡大山ニ一族安堵居城ス」
=1220年

上記の「安井権守頼高」は多田氏の系だそう。上記文書のなかに「多田満仲8代式部大輔兼摂津守源頼基ノ男とある。」


web情報に牛沢重基が載っていたのでコピーする。(日本通信百科事典)

https://japan.fandom.com/ja/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E6%B0%8F_(%E6%BA%90%E6%B0%8F)

里見氏(さとみし)は、陽成源氏(河内源氏)流 新田氏(上野源氏)の庶宗家。上野里見氏とも呼ばれる。

上野国新田郡竹林郷(高林郷)[1]のほかに、北部にある同国碓氷郡里見郷[2]にも領地を持っていたために、竹林氏(高林氏)とも呼ばれた。

庶家に上野田中氏・中里見氏・上野大島氏[3]・鳥山氏・美濃里見氏(竹林氏/高林氏)・豊岡氏(豊前氏)[4]・上野太田氏・牛沢氏・上野山本氏・仁田山氏・常陸小原氏[5]・上野堀内氏などがあった。


新田義重の庶長子の里見義俊を祖とする。上野国北西部の榛名山付近を拠点として、その一門の中には越後国まで勢力を拡大した。

鎌倉時代の1180年に義俊の長子の義成は外甥の山名義範(矢田義清の庶長子)とともに源家(源姓鎌倉氏)の鎌倉頼朝のもとに馳せ参じて、ともに御家人に列せられ、重用された。頼朝の死後も、その子の頼家・実朝兄弟に仕えて将軍に近侍して、異母弟の義兼流である新田氏惣領家を凌ぐ存在となった。

義成の末子の竹林(高林)義直は、北条得宗家に仕えて、1221年の『承久の乱』の乱で戦功を挙げて、美濃国の一部を与えられて、美濃里見氏(美濃源氏)の祖となった[6]。

南北朝時代になると、義俊の6世の孫にあたる義胤は、惣領家の新田義貞に従って、『鎌倉攻め』に義貞の左腕として活躍して、北条得宗家を滅ぼした功で、後醍醐天皇から伊賀守に、さらに越後国守護にも任命された。

1338年に義貞が越前国藤島の灯明寺畷で戦死を遂げると、義胤は同族の足利尊氏(高氏)に徹底的に抗戦するも、義胤の族弟である美濃里見氏の当主の竹林(高林)義宗(義直の6世の孫)は、尊氏の同母弟である足利直義(高国)に従ったが、『観応の擾乱』で直義が兄に敗北したために、義宗は所領を失い、子の為俊(為利)とともに没落した。

室町時代になると、義胤の孫の基義は、鎌倉公方の足利満兼(尊氏の曾孫)に召しだされて、常陸国に所領を得て、遠縁筋の常陸国守護の源姓佐竹氏(常陸源氏)の家老となった。基義の子の家基の代に、源姓佐竹氏の最後の当主の佐竹義盛配下の武将として、『結城の戦い』で、結城氏朝・持朝父子を頼って、ともに鎌倉公方の足利持氏(満兼の子)に従いたために、将軍の足利義教の命を受けた関東管領の上杉憲実に抗戦するも、ついに敗北して、自邸で子の家氏とともに火を放って自刃を遂げた。こうして、源姓里見氏はついに滅亡した[7]。


その一方、安房里見氏の祖である義実(大隅守・氏義))[8]・義通(義成/成義)父子は家基の遺児[9]とする説があるが、これは後世の仮冒といわれており、安房国の土豪である海保氏[10]が「里見氏」と自称した可能性があるといわれている[11][12]。
歴代当主編集

里見義俊 : 新田義兼・世良田義光・世良田義季(得川義秀)・合土義澄(額戸経義)・義佐(義任)・庄田義盛(義益)の兄。
里見義成 : 田中義清・中里見義雅(政氏)[13]の兄。
里見義基 : 大島義継・鳥山時成・豊岡義行[14]・竹林(高林)義直(美濃里見氏の祖)の兄。
里見義秀 : 氏義[15]の弟、牛沢重基[16]・太田義宗[17]の兄。
里見忠義(基秀) : 時秀・義綱・義氏の兄。
里見義胤 : 時継(秀氏)・義貞の兄。
里見義連 : 義宣の兄。
里見基義 : 山本胤幸・仁田山氏連[18]・家連(貞連)の兄。
里見家兼 : 基宗・小原満俊[19][5]・海保堯常[8]室の兄。
里見家基 : 満行・堀内満氏・家成[20]の兄。
里見家氏 : 断絶。

脚注編集

1 ↑ 現在の群馬県太田市高林寿町・北町・東町・西町・南町の周辺
2 ↑ 現在の群馬県高崎市上里見町・中里見町・下里見町
3 ↑ 庶家は大井田氏(庶家は越後大岡氏・越後羽田氏などの越後源氏)・上野篠原氏・上野糸井氏など。
4 ↑ 上野国碓氷郡八幡郷豊岡村(現在の群馬県高崎市上豊岡町)を拠点とした。
5 ↑ 5.0 5.1 常陸国茨城郡小原郷(現在の茨城県笠間市小原大字)を拠点とした。
6 ↑ 『尊卑分脈』
7 ↑ 義胤の孫の仁田山氏連(義連の第3子)の系統は、戦国時代に榛名里見家の祖となったと伝わる(『上野国志』仁田山旧塁条)。
8 ↑ 8.0 8.1 海保堯常の子の義実の前名は海保常実であり、源頼朝に誅殺された上総広常の後裔とされ、その生母が里見基義の娘で、家兼の外甥で、家基の外従弟で、家氏の外従父にあたるため、家基・家氏父子が戦死を遂げると、上野里見氏の後継者と自称した説もある。
9 ↑ 美濃里見氏の系統とする異説もある。
10 ↑ 古代の上海上国造(上菟上国造)、あるいは坂東八氏の上総氏の系統といといわれる。
11 ↑ 『古代氏族系譜集成』(宝賀寿男/古代氏族研究会/1986年)による。
12 ↑ 他説には、1193年9月(建久4年8月)に義俊が、安房国守護となり、以降から里見氏は同国平郡(平群郡)を拠点としたことを肖(あやか)ったともいわれている(『姓氏』(著者:丹羽基二・監修:樋口清之/秋田書店/1970年)366頁が引用する『安房志』(1908年刊行)および、『房総里見氏』「房総里見氏論 - 研究史の整理を中心に - 」(滝川恒昭/戎光祥出版社/2014年)より)。
13 ↑ 家貞の父。
14 ↑ 行成の父。
15 ↑ 重氏・重義・盛氏の父、重周(重氏の子)の祖父、義高の曾祖父、重高の高祖父、重益の6世の祖。
16 ↑ 重宗の父、基宗・重幸の祖父。
17 ↑ 重家・重国の父。
18 ↑ 成義の父、時連の祖父、国義の曾祖父、宗連(家連)の高祖父、宗義・義宗の6世の祖。
19 ↑ 持家の父、氏兼の祖父、政兼の曾祖父。
20 ↑ 義重(義繁)の父、義政の祖父、義貞の曾祖父、義時の高祖父、政成の6世の祖。


別な情報源より
https://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E4%B8%80%E6%97%8F%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

3男:牛澤重基・・新田庄高林郷隣の牛沢郷住

       →子孫は越後中沢郷(長岡市中沢・新潟市中沢)

越中国婦負郡の長沢とのつながりをもう一度考えてみようと思う。

===*===
ここからは、私の全くの想像

源光長と息光経が歿した後、(光長の兄弟である光基)光基はその弟の光衡を息とし、また光経の遺児をひきとり育てることとなった。
光経の息であった光助はどのような経緯か「越中国婦負郡長沢」に居住し「長沢」を名乗ることとなった。
誰かの領地だった場所と思う。(婦負郡長沢…射水臣と関係のあった三善氏??)

光長の母は「左衛門尉清俊の娘」というが、たぶん山内首藤清俊のことで清俊の母は熊野別当の娘で「鶴熊」といった。
愛甲庄・畔蒜庄に名を残している山内経俊は藤原山内首藤清俊の曽祖父である。
山内尼が頼朝の乳母であったため、経俊は頼朝の乳兄弟となっていた。

その「鶴熊」と義経とは、会っていると思う。
熊野氏周辺と義経は繋がっていたのである。
義経は鳥居禅尼に刀も貰っている! 湛増に熊野水軍で加勢もしてもらっている。

土岐光長妻が熊野別当系孫?であったことから、義経との縁が繋がったとしても荒唐無稽ではない、と思う。

1243年の事↓


さらに、光基の娘が波多野秀宗 に嫁いでいる。
波多野秀宗は、官職は河内守。相模波多野氏(秦野氏)一門。


さて、越後の中沢とはどうなのだろうか。
「鎌倉時代の武将たち」にあった系図を基に考えると
http://kuwaichi.dip.jp/u_2_2.html


光綱に養子に入った義基の嫁となった「義経の娘」は、重基を産む。

越中国の長沢光基の娘が里見重基の息の重宗に嫁いで基宗が生まれ、基宗に息がいなかったために越中国の長沢から養子をとった。
越中国長沢の系、つまり土岐光助(助光)の後裔から、という事となる。

===*===

私の頭も混乱しているが、ともかく土岐氏・長沢氏 と 里見氏・中沢氏 が結ばれていたことがわかる。
このつながりが里見氏は万喜土岐氏にもつながっていくように思う。

そして、波多野氏(山内氏)と土岐氏、波多野氏(山内氏)と里見氏も其々に婚姻関係がある。

右衛門尉光綱の部分は、混乱するので省いたが、もしも「義経との邂逅」のように「野木光綱」であったなら、そこで佐々木氏とのつながりもできるという事になる。

中沢氏は久下氏と共に丹波国に来ている。
どこかに九里氏かその前身の中原氏と接点があるのでは、と思っている。


===*===

図書館のリファレントに以下のことが出ていた。memoとして置いておく。

源有綱の終焉の地について知りたいが、それに関して記述している資料はあるか。

奈良県の宇陀郡(現在の宇陀市)は、大和源氏の一根拠地であったこともあり、「源氏」にまつわる伝承が多い土地です。例えば、清和源氏の祖といわれる六孫王経基の墓と称される五輪塔が栖光寺(宇陀市大宇陀区岩清水)にあったり、元暦元年(1185)5月24日、源義経が大和国宇陀郡龍門牧に身を潜めていた(『吾妻鏡』)などがそうです。
ご質問の源義経の聟伊豆右衛門尉源有綱も宇陀郡において、文治2年(1186)6月、平時貞と戦って敗れたといいます(『吾妻鏡』)。ただ宇陀郡内のどの場所かを記述している文献は少なく、『奈良県宇陀郡史料』(宇陀郡役所編 大正6年)「総論」の年表(6頁)文治2年の項に「六月平時貞源有綱を下芳野に攻めて是を殺す」とあります。
この「下芳野」というのは旧宇賀志村(現在、宇陀市菟田野区)に属します。『菟田野町史』にはこのことが触れられていますが、場所は特定していません。したがって「下芳野」とはっきり書かれているのは『奈良県宇陀郡史料』だけです。
なお、上記以外の参考文献としては下記のものがあります。
① 『大宇陀町史』 新訂
② 『総合地方史大年表』

◆出典・参考資料
『全譯吾妻鏡』 貴志正造訳注 新人物往来社 (210.42-23-1~5)
『奈良縣宇陀郡史料 全』 宇陀郡役所編 名著出版 (216.5-311)
『菟田野町史』 菟田野町史編集委員会編 菟田野町 (216.5-243)
『大宇陀町史』 新訂 大宇陀町史編集委員会編 大宇陀町 (216.5-506)
『総合地方史大年表』 岡山泰四, 金井圓編 人物往来社 (210.03-68)




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1 コメント

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Unknown (りひと)
2020-01-20 17:48:19
個人的にとても興味深々です。
里見氏は土浦の方で出会った筋なのでですが関係出てくるのか?楽しみです。佐竹さんもやたらと。
群馬もいっぱい出てきて嬉しいです。世良田と新田の関わる所も興味あります。榛名も食材メニューでも食べに行っちゃいます。なんなんでしょうね。

多田も昔から気になってる一族です。パズルのピースがいっぱい出てきてどんな絵になるのか?私にははめて行く事は出来ないんですけどイメージの絵は出てくるといいなあ。

不思議ですけど、自分の興味ある事ばかりが出てくるんですよね。面白すぎちゃう。

ちょっとまだ先かもしれませんが頂いた情報では奈良県の磯城郡が興味深々です。川西町と三宅町と田原本町あたりが愛知との接点がありそうなんですよね。父の背景とどうも接点ありそうです。同じ宇陀あたりと接点も探そうかと思ってます。三宅の付く方がこの前気になったんですけど予備知識なく縁ある忍性さんの生誕地らしく。

最近脱線ばかりなんで適当にあしらってくださいね。
義経さんと関係ある方がまた気になりましたよ。虎とか毘沙門関係の場所も寅年だった群馬出身の祖母の関係なのか選んで行ってるわけでもないけど行ってしまう。大河も初めて裏番組争いで勝ち観れましたけど、古代も戦国も理解したいんで今年は鎌倉時代探ってみますね。
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