久里双水古墳は全長108Mあるのに、其の棺の部分はやけに小さいそうである。
そして銅鏡が被葬者の顔を隠す役割があったとすると、久里双水古墳から出土された銅鏡はやけに小さいので(12.1センチ)ますます、子どもだったと思われる。
大きな前方後円墳まで作ったのだから、それは王族の子どもだったのではないだろうか?
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昭和56年に発見され、平成6年8月の学術調査の結果、日本でも最も古い古墳の一つであることが確認された。
全長 108.5m、後円部径62.2m、前方部幅42.8mの3世紀末から4世紀初めの前方後円墳である。
後円部の頂上からは内法で長さ2.5m、幅0.8mの竪穴式石室が検出され、内部には舟船形木棺を安置したと考えられる舟形粘土床が発見された。
竪穴式石室から直径12.1cmの盤龍鏡1面と、管玉2個さらに刀子が出土し、邪馬台国時代の3世紀にさかのぼる前方後円墳の起源を考える上でも、全国的に注目される古墳である。・・・
魏志倭人伝に記述される「末廬国」の首長墓ではないかという見方もある。現在は外観整備、ベンチ、ライトアップ等を整え、石室のレプリカも作成し、古墳公園として市民や観光客に親しまれている。
久里双水古墳 - 邪馬台国大研究より
構造
全長:108.5メートル
後円部径:62.2メートル
前方部幅:42.8メートル
文化遺産オンラインでは全長90mとなっている。
前方後円墳(全長約90m)
古墳時代前期/3世紀後半頃
丘陵の先端に立地。前方部の長さと後円部の径がほぼ等しく、前方部が直線的に伸びる「柄鏡形」に近い形態。後円部の中央に配置された竪穴式石室は、全長が100m近い規模をもつ古墳のものとしては著しく短小。
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さて、久里双水古墳にほど近い「唐津」と「朝鮮半島」との間に【壱岐島】もある。
松尾神社を思い出した際に、蘇ってきたのが【月読神社】
この神社は壱岐島と関係が深い。さらに聖徳太子とも。
日本書紀の記述によると,古墳時代(西暦487年)阿閉臣事代という外交官が朝鮮半島の任那に出掛ける途中,壱岐に立ち寄った際に月読尊が現われ「自分を京都に祀ればこの国に幸いが来る」と告げた。
そのため 天皇に奏上して京都嵐山(現在の松尾神社の近く)に社を創建。
壱岐の月讀神社の神を勧請して壱岐の県主の祖・忍見宿禰に祀らせた。
これが京都市の月読神社で,壱岐の月讀神社はその元宮とされている。
この記述を基に,中央に神道が根付くきっかけが作られたとして,壱岐は「神道発祥の地」を名乗っている。
ちなみに 壱岐の月讀神社は延喜式内社の一つである。
平安時代に編纂された「延喜式」には,全国の社格の高い神社が記録されている(式内社)が, その中に 壱岐島は24,対馬島は29の神社が記載されている。
九州全体の式内社の数は98なので,壱岐と対馬だけで 全体の半分以上を占めている。 当時の壱岐・対馬がいかに栄え 重要視されていたかが読み取れる。
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斎衡三年(856)に松尾山南麓である京都市西京区松室山添町の現在の地に移ったという。
周囲の神社等をみると、秦氏と関係の深い場所だったように感じる。
また、同じ郡内に【平野神社】があり今木神をまつっているのだが、平野神社のwikipediaによると
神名の「今木」とは「今来」すなわち新しく来た渡来人の意味であるとして、大和国高市郡(今来郡)において渡来人により祀られた渡来神であったとする説である[5]。
この田村後宮における祭祀者は高野新笠と山部親王(桓武天皇)と見られ、高野新笠の父の和乙継の出自である渡来系氏族の和氏(やまとうじ)の祖神として祀られた渡来神といわれる[24][5][9]。
『続日本紀』[原 17]では和氏の出自を百済武寧王の子の純陀太子と記すことから、今木神を特に百済系の渡来神とする説もある
‥‥となり、
5世紀後半~6世紀に朝鮮半島から移住した技術をもった人々を「今来才伎(いまきのてひと)」と呼んでいるそうである。
『日本書紀』「雄略紀」によれば今来才伎は百済から献上された人々である(雄略天皇七年「集聚百済所貢今来才伎於大嶋中」)。