唐津市 県指定史跡 久里双水古墳より
後円部墳頂に隅丸長方形の粘土で覆われた石室が発見されました。
しかも掘り方の裏込め控え石がみられず、土が充填されること、墓壙(ぼこう)のコーナーに足掛かり状の小さい段を作り出すこと、また、掘り方の東南側に古式土師器(はじき)の供献土器も確認されました。
しかし、同時に石室上部に平安時代後期の経塚(きょうづか)も発見されました。経塚は外部構造が方形二重の列石で内部に滑石製外筒にいれた銅製経筒をもつという11世紀末の九州でも最古級の完全なものであることが分かり、保存も検討することになりました。
久里双水古墳の保存整備に伴う調査は平成6年度に行われ、全体が厚く粘土被覆された古墳の主体部である竪穴式石室が調査されました。
粘土で覆われた石室は、長さ1.80m~1.94m、幅1.09m~1.17m、厚さ0.04m~0.15mの砂岩製の天井石3枚によって密閉されていました。これを開口した結果、内径が長さ約2.5m、幅0.9m、高さ1.0mの竪穴式石室が検出されました。床面に長さ2.05m、幅0.61mの両端が反り上がった特異な形の、断面がU字形の粘土床がみつかりました。壁面や天井石の裏には一面に赤色顔料が塗られ、粘土の被覆面の中にも顔料の散布面が確認され、密封作業の工程も検討できるものです。粘土床の様態から安置された木棺が従来考えられていた割竹形木棺ではなく、前方後円墳では類例のない舟形木棺であった可能性も指摘されました。
唐津市双水字サコ2776-1番地
http://kodaisinokai.web.fc2.com/images/karatu-and-itosima.pdf
1. 久里双水古墳
この古 墳は、唐津地方最大の 全長
108.5 を測る前方後円墳です。
前方後円墳というのは、古墳時代の有力者のお墓で、上から見ると方形(前方)円形(後円)を組み合わせた巨大な鍵穴の形をした墳墓で、大阪府の応神天皇陵とか、仁徳天皇陵などが有名で、英語では Keyhole-Shaped Tomb などとも呼ばれる日本独特のものです。
世界では日本と韓国の一部にしかありません。韓国のものは日本から伝わったもので、数も限られています。日本では沖縄や北海道、東北の一部を除いて各地に沢山残っています。
久里双水古墳もそのうちの一つですが、有名になったのはこの古墳が造られたの時期が、大変早い時期の 3 世紀末から 4 世紀初頭の頃のものであると考えられるからで、調査が始まったころは、前方後円墳の最も早いものだとさえ言われたものです。
前方後円墳は、一般には奈良県の箸墓古墳をもって最初のものと言われていますが正確ではありません。確かに定型化した前方後円墳は箸墓古墳が最も古いものと考えられていますが、前方後円形をした古墳が箸墓古墳より先に、箸墓古墳のある奈良県の纏向地方に幾つか作られていたと考えられています。纏向石塚古墳、纏向矢塚古墳、ホケノ山古墳などです。これらは纏向型前方後円墳と呼ばれ、奈良県以外の九州や、千葉県等にもあるとする研究者もいます。
この纏向型とは少し異なる前方後円形の古墳が、箸墓古墳以前に九州や四国、などでも造られています。九州では福岡市の那珂八幡古墳もその一つだと言う研究者(久住猛雄氏 1 人)がいます。那珂八幡古墳の流れを汲むと思われる幾つかの古墳もあるとのことです。これらは、先ほどの纏向石塚古墳などより少し後に造られたと思われるので、おそらく纏向型前方後円墳の影響を受けていると思われますが、前方部と後円部の径と前方部の長さの比が纏向型前方後円墳と少し異なりますので、前方後円墳は多元的に各地で発生したのではないかと考える人もいるようです。中には前方後円墳は九州で発生したと主張する人もいるようですが、いささか行き過ぎた主張でしょう。
箸墓古墳以前のものに、その他岡山県の楯築古墳があります。この古墳は、円形の両側に方形がついた双方中円墳と呼ばれるもので、前方後円墳の祖源だとする研究者もいます。また東部瀬戸内沿岸や大阪湾沿岸には弥生時代末に造られたもので、周溝墓に通り道を付けた墳墓(前方後円形に近い形)があり、これらが前方後円墳に発展したと考える研究者もいるようです。前方後円墳の起源については、未だ定説はなく今後も議論が続くことでしょう。
前方後円墳の起原はさておき、箸墓古墳以降に大和を中心とする畿内で巨大な前方後円墳が次々作られ、これらの影響を受けた前方後円墳が全国に波及していきます。但し、初期の大和の前方後円墳祭祀には、九州や瀬戸内の伝統的な祭祀要素も見られ、
前方後円墳が大和勢力のみで造り出したものではないと主張する研究者もいます。
久里双水古墳は、那珂八幡古墳の形態とは明らかに異なり、竪穴式石槨(石室)という九州では外来の埋葬施設を採用していて、在地の伝統的埋葬習慣を残しながらも、畿内の前方後円墳の影響を受けていると考えられます。
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『九州以外の地からの埋葬施設を採用…。』
私が調べたところ、前方後円墳でしかも舟形木棺の形式を持っていたのは、雪野山古墳の墳墓であった。
この古墳は以前より気になっていた。
ここと同じ!とは、何かしらご縁がありそうで、嬉しい。
https://e-omi-muse.com/maibun/yukinoyama/index.html
雪野山古墳群は、どのような一族が被葬者だったのだろうか?
久里双水古墳との関係はないのだろうか?
九里氏の先祖には神功皇后とともに船に乗って松浦郡を通って新羅か馬韓・辰韓・弁韓に行った人物がいたのではないだろうか?
息長氏の一族か、その関係者ではないのだろうか?
雪野山は竜神の住む神聖な山でもあり、貴船神社の祠も在ったそうだ。(貴船は鴨氏の担当だと思う。)
久里双水古墳の鏡も龍である。
平縁盤龍鏡
古墳時代前期前半(久里双水古墳の出土品) ↓
平縁盤龍鏡は、鏡背面より、赤色顔料が検出されている。完形品で、鏡背外区と鏡面の大部分は緑青に覆われているが、確認できる内区などの鋳上がりは良好である。鈕はやや小さく、内…
平縁盤龍鏡 直径12.85㎝、縁の厚さ0.8㎝、重さ498.6g
碧玉製管玉 長さ0.7㎝、直径0.35㎝、孔径約0.15㎝/長さ0.9㎝、直径0.35㎝、孔径0.2㎝
鉄製刀子 長さ現存長7.1㎝ 先端から関部分ま…
4点(1面、2点、1口)
memo
https://note.com/mochan888/n/nd4f529b70541
古代中国では、舟棺を用いた葬送(舟棺葬)は新石器時代晩期に始まったという。
では朝鮮半島では舟形はあったのだろうか? 木棺の情報はあったが‥
https://www.mindan.org/old/front/newsDetaildc7a.html
私は、鳥居が太陽と関係があり、そのあたりからエジプトの太陽神と新党が繋がっているのではないかと思っていたが、この船もエジプトでの死者があの世へ向かうための舟なのではないかと思った。が、どうだろうか。
https://www.amorc.jp/material_093/
https://lunabura.exblog.jp/30172516/
ルルカーはクフ王ピラミッドの脇で出土した二隻の船(太陽の船)について、「太陽の船を意味したかどうかははっきりしない」と記し、死者が神々を祀る式典に参加するための船ではないかと記している。
ブログの過去記事で、私も太陽の船ではないのではないかと記したので、同意見の学者がいてちょっと嬉しい。
ただし今の所、ルルカーと違うのは、オシリスと月の船ではないかと考えている点だ。
舟形にこだわって調べてみると、面白い記事がみつかった。
https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/a82f47e84773793545bb50c6631860e3
タイのアカ族
歴史 アカ族は19世紀以後に中国雲南省から、タイやミャンマーに移住してきた民族でタイでの歴史は浅い。 先祖はは中国の古代の先住民チャン族で4世紀から8世紀にかけて雲南省に住みついたと考えられている。 |
https://craftaid.jp/?mode=grp&gid=593991
鳥居のような家の門
チャン(羌)は、中国西北部のチベット系民族。・・・多胡碑のなかの「羊」かも知れない??