九里 【九里】を探して三千里

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高市という名称より、遡ってみる。(1)舒明天皇の妻  宝姫王(皇極天皇)の母親は吉備姫王

2023-01-29 | 古代からのつながり

この記事を書いて忘れていたので、1月23日の記事の後に読んでいただけると嬉しいです。

高市という名称にこだわりを持って、調べてみました。

 

 

舒明天皇は田村という諱だが、朝鮮半島沖の済州島古代から中世にかけて存在した王国である耽牟羅(たむら)と関係があるのではないだろうか?

 

 

 

舒明天皇の妻の母となった吉備姫王は643年に没して「奈良県高市郡明日香村に埋葬されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%BD%E7%BE%85

 

舒明天皇の母親が宝王、妻となったのが宝皇女で皇極・斉明天皇

宝王は敏達天皇の娘。その敏達天皇の妻となったのが諱が額田部の推古天皇

宝王の息舒明天皇。その舒明天皇の妻となったのが宝皇女

 

宝王は高市郡明日香村に埋葬され、

其の高市郡の8-9割が帰化人(渡来人)であったという。(時代によると思うが。)

日本語に混用された渡来語 より

https://core.ac.uk/download/pdf/229731121.pdf

 

 

更に『高市連は額田部と同祖。』のようだ。

高市許梅(こめ)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B8%82%E8%A8%B1%E6%A2%85

神代巻に「天津日子根命者高市県主等之祖 也」とあり、「日本書紀」天武天皇元年(六七二)七 月条に「高市県主許梅(こめ)」の名がみえる。「延喜式」 神名帳高市郡には高市御県坐鴨事代主神社 (現橿原市雲梯町の河俣神社に比定)

 

 

舒明天皇の妻となった宝皇女(宝女王)は、皇極・斉明天皇となる方だが、最初の夫は『高向王』という。

高向と云えば、私の場合は近江国御家人井口中原系図の中にある『高向利男』が思い浮かぶのだが、時代は天武天皇よりも前の時代となるので、その先祖かと思う。

高向玄理は史氏で高向古足の息、高向王とは別系かもしれない。

 

http://ktymtskz.my.coocan.jp/S/kodai/kodai0.htm

http://www5f.biglobe.ne.jp/~kodai-musashigaku/newpage12.html

 

上記の長い記事の中に以下があった。

高市皇子はここで育ったのだろうか。

当時、帰化人(漢(あや)氏・秦(はた)氏)が多く、それらの多くは南大和の高市(たけち)飛鳥地方に居住して、あるいは史部(ふひとべ)となって朝廷につかえ、あるいは兵士となり、あるいは工業に従事して、わが国の文化や産業の発展に大きな力を尽くした。

「これら帰化人は奈良朝末期になっても、高市郡の人口の八割ないし九割を占めていたという」

 

高市(古代)  JLOGOSより (読みやすいように改行した)

 

大和期から見える地名武市とも書く奈良盆地の南部,畝傍山の西北から東にかけての地域市場地名か天照大神が天石窟に隠れた時,八十万神は「天高市」に集合し,対策を相談したとあるように,市の語源は一定の地域に人々が集合している所をいう(神代紀第7段一書第1)

「倭の この高市に 小高る 市の高処【つかさ】」(古事記雄略段歌謡)と詠まれるように,土地が少し高くなった所に設けられた市が高市である市には人々が集まり,物品交換・歌垣・会議・神宴など,多様な目的に用いられ,高い土地や大木のある神聖な場所が選ばれた高市は長(タケ)市・竹市の義とも考えられ,式内社天高市神社の鎮座する現橿原【かしはら】市曽我には竹市の小字が残る(大和地名大辞典)

 

なお十市は遠市の義で高市に対する市名か(橿原市史)

のちには舒明天皇の飛鳥岡本宮や天武天皇の建立した大官大寺のあった現明日香村小山付近も高市(里)と称された

 

①高市神話や歌謡に「天高市」(神代紀第7段一書第1・第9段一書第2,古語拾遺)や「高市」(古事記雄略段)の地名が見える

ただし市は多く小高い場所に設定されたので「高市」は一か所に限定できず,雄略朝に見える「高市」は歌謡の内容から磯城【しき】地方に求めるのが自然であり,のちの高市郡内に特定できない一方「天高市」は神話上の地名だが,「延喜式」神名上の高市郡54座のうちに「天高市神社」が見え,現在の橿原市曽我町字宮の久保に比定されることから,当地を意識して発想されたと考えられる

なお同社は貞観元年に従五位下から従五位上へと昇叙されている(三代実録貞観元年正月27日条)現在の橿原市曽我町を中心とする地域か

 

②高市県大和六県の1つ正史には見えないが,高市県が大化前代に存在したことは,「延喜式」神名上の高市郡54座のうちに「高市御県坐鴨事代主神社」と「高市御県神社」の2社が見えることによって知られる

両社はそれぞれ現在の橿原市雲梯【うなて】町字宮ノ脇,同市四条町字宮ノ坪に比定され,畝傍山の北部地域が高市県の範囲であったと推定される事代主命の御魂は「宇奈提」に鎮座し(延喜式出雲国造神賀詞),壬申の乱では「高市郡大領高市県主許梅」が神懸りして,吾は「高市社」に居る事代主神であると託宣していることから(天武紀元年7月条),高市御県坐鴨事代主神社は雲梯(宇奈提)に所在し,高市社と称したことが知られる

「万葉集」には「卯名手の社」と見える(1344・3100)貞観元年従二位から従一位に昇叙されている(三代実録貞観元年正月27日条)一方高市御県神社は大和六御県神社の1つで,葛木・十市・志貴・山辺・曽布の各御県神社とともに,県に生ずる蔬菜を貢進することになっていた(延喜式祈年祭・月次祭祝詞)大同元年に神封2戸が与えられ(新抄格勅符抄),貞観元年には従五位下から従五位上に昇叙されている(三代実録貞観元年正月27日条)

また奈良末期頃成立したとされる「紀氏家牒」(無窮会神習文庫玉簏73)には蘇我・巨勢氏らの祖の家地として高市県江沼里・蘇我里の地名が見え,軽里も高市県に含まれたと考えられるただしこの県名が大化前代のものかのちの修字かは明らかでない地名にちなむ氏族としては,高市県主・高市連などがいる高市県主は凡川内国造らと同族で,天津彦根命の12世孫,建許呂命の後裔を称する(古事記天安河誓約段,姓氏録和泉国神別)

一族には高市郡大領高市県主許梅,山背国愛宕郡の人高市県主笠売らがいる(天武紀元年7月条,正倉院文書神亀3年山背国愛宕郡出雲郷雲下里計帳/大日古編年1)

一方高市連の旧姓も県主で,天武天皇12年に連姓を賜っている(天武紀12年10月己未条)額田部と同祖で天津彦根命の3世孫,彦伊賀都命の後と伝承される(姓氏録左京神別下)一族には万葉歌人の高市連黒人,聖武朝の官人高市連大国・高市連真麻呂,相模国大目高市連種麻呂,高市郡擬大領高市連屋守・同擬少領高市連広君らがいる(万葉集32,続紀天平勝宝元年4月丁未条・同12月丁亥条,薬師院文書天平勝宝7歳11月13日相模国司解/大日古編年4,筒井英俊氏所蔵天平勝宝8歳12月13日東大寺領飛騨坂所公験案/同前25)

天武天皇の子,高市皇子の名も高市県にちなむ

なお養老7年官婢花は高市の姓を賜っている(続紀養老7年12月丁酉条)

高市県は7世紀中葉以後,渡来人の居住地たる今来郡を合わせて,高市郡(評)に改編される高市郡の北部がもと高市県の領域である

 

③高市池推古紀15年是歳冬条に「倭国に,高市池・藤原池・肩岡池・菅原池を作る」とあるが,高市県のどこに作られた池か明らかでない

 

④高市里神護景雲元年大安寺に施入された水田の位置表記に「大和国二町〈一町路東十一橋本田一町路東十二岡本田在高市郡高市里専古寺地西辺〉」と見える(神護景雲元年12月1日符/三代格15)この施入田の位置は高市郡京南路東28条3里(高市里)の11坪と12坪に比定できる古寺(大官大寺・高市大寺)の西が岡本と称されていたとあり,舒明天皇の飛鳥岡本宮(舒明紀2年10月癸卯条)の比定地ともなっている

飛鳥岡本宮は「高市岡本宮」とも表記され(万葉集2標注・487左注,延喜式諸陵寮,聖徳太子伝暦/続群8上),舒明天皇は「高市天皇」と別称された(皇極紀2年9月壬午条分注)

なお「帝王編年記」は高市岡本宮の位置について「大和国高市郡島東岳本地是也」とするが,草壁皇子の岡宮と混同したものらしい

一方大官大寺については,百済大寺の近くの子部大神が怨を含んで堂塔を焼いたため,天武天皇2年に天皇が小紫美濃王と小錦下紀臣訶多麻呂を高市大寺を造る司に任じ,寺を百済から高市郡夜部村に遷立させ,同6年に高市大寺を改めて大官大寺(高市大官寺)と号したと伝承される(天武紀2年12月丙戊条,天平19年大安寺資財帳/寧遺中,三代実録元慶4年10月20日条所引大安寺三綱牒)

なお大安寺碑(寧遺下)には「高市村」に移建されたとある現在の明日香村小山付近に比定される

 

⑤高市評駿河浅間大社の大宮司家に伝わる和邇部氏系図(姓氏家系大辞典3)によれば,一族の山栗臣は「高市評久米里」に居住して久米臣を称したとあるこの系図の真偽は明らかではないが,「姓氏録」大和国皇別に和珥氏系の「久米臣」が見えるのと対応している久米里は「和名抄」に見える高市郡久米郷の前身か

 

おまけmemo

温羅伝説1~

https://www.city.soja.okayama.jp/kanko_project/kanko/oninideau/oninideau_kibiji_02.html

 

論文紀要  岡山理科大学
古代の吉備における加耶について
-吉備・加耶交流史に関する覚書一一 志野敏夫著

『崇神天皇(垂仁天皇ともいう)のころ、異国から鬼神が吉備国に飛来した.彼は百済の王子で温羅といい、吉備冠者とも呼ばれた。凶悪な彼は、備中国の新山に居城を構え、西国から都に送る貢物や婦女子しばしば奪ったので、人々は恐れて居城を「鬼ノ城」と呼んで天皇に訴えた。そこで朝廷は孝霊天皇の皇子の五十狭芹彦命を遣わした。大軍を率いたミコトは吉備の中山(吉備津神社がある)に陣を布き、西の片岡山に石楯を築いた。楯築神社(倉敷市王墓山丘北端)はその遺跡である。』とある。

 

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