吾妻鑑
10月17日 丙申
波多野右馬の允義常を誅せんが為、軍士を遣わさるの処、義常この事を聞き、彼の討
手下河邊庄司行平等未到の以前、松田郷に於いて自殺す。子息有常は、景義の許に在
り。この殃いを遁る。
義常姨母は、中宮大夫の進朝長母儀(典膳大夫久経が子たり)。
仍って父義通妹公の好に就いて、始めて左典厩に候すの処、不和の儀有り。
去る保元三年春の比、俄に洛陽を辞し、波多野郷に居住すと。
[玉葉]
伝聞、追討使遠江の国に於いて、彼の国の住人の為射危せらると。後聞謬説と。
典膳大夫中原久経の養女(吾妻鏡・治承四年( 10 )十月十七日条)。
波多野氏の所領、相模国松田郷(神奈川県足柄上郡松田町)に邸宅があった(同・同月十八日条)。母の義父久経は義朝に仕えて功あり、文筆に携わったという(同・元暦二年(一二五)二月五日条)。
以上はweb情報とgooglebooksからのものだが、
波多野義常のwikipediaを見ると「中河辺清兼娘」とある。上の【養女】は間違えているのではないだろうか?
松田義常の母は、久経の養女であったという事なのだろうか?
そう、ではなく義常の母は、久経の母と姉妹であり、義常の叔母が久経の母であったと思う。
義常と久経は従兄弟である。年も同じくらいであったと思う。
で、久経の母が嫁いだのは【菖蒲実経】であったのではあるまいか?
中原の系というのは祖父を踏襲したものであり、母が再嫁した相手は【菖蒲実経】=【紀実経】【長田実経】であったように思うのだ。あるいは、大友経家か?
私は、今まで調べてきて【菖蒲実経】のように思う。
石見国にも菖蒲氏が入っていて、その辺りから石見国の久利氏とも繋がる要因はあったように思う。
次回この辺りを詳しく書いてみようと思う。
久利と九里が繋がってきた。
https://ameblo.jp/macross-vf1j/entry-12242404304.html