頂いたばかりのコメントですが、大変に重要な事でしたので、ここでもご紹介します。
・コメント
田中政三(1982)『近江源氏 三巻』(弘文堂)の「第11章 浅小井深尾氏」に次のような記述があります。
浅小井深尾氏は10代目・加賀守元範と11代・加賀守元秀の二代が、浅小井城主として最も勢力のある時期だった。元秀の嫡子・加賀介秀長は深尾家を継いだが、佐々木六角の重臣・伊庭下総守資長が六角氏に天文年間に反乱を起こした時、これに味方してそれが露見し、天文年間に城を棄てて蓄電・行方不明になってしまった。それは、秀長が六角氏に対する戦いに加わったのではなかった。
伊庭氏に味方した九里(くのり)三郎左衛門が六角氏との黒橋の戦いで討ち死にしたのは大永五(1525)年であった。深尾氏は九里氏と姻戚関係にあったため、討ち死にした九里氏の遺児・三郎丸をひそかに引き取って、浅小井城にかくまったのである。それが後に露見して天文年間(1532ー1555年)に姿をくらましてしまった。
秀長には弟が居て、幼名・須賀介と言ったが、兄が謀反の罪に問われて姿を消したので、浅小井城は六角氏に召し上げられ、禄を失って閑居することになった。深尾家は断絶したのである。その後、同族の晴松軒入道の取りなしと懇願によって罪を許され、わずか1500石だったが禄を与えられた。これで弟は11代・元秀の後を継ぎ、12代左衛門佐元忠と名のって深尾家を再興し、佐々木六角氏に仕えた。
以上。
近江国九里氏婚姻関係があった「浅小井深尾氏」 九里氏の遺児 三郎丸。
深尾さまのご先祖様、ありがとうございます。
身を挺してまでも九里の子を守ってくださり、しかもその後のご苦労も思うと、頭が下がります。
この情報を教えてくださった「たつや」様にも本当に感謝です。
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山内氏との関係やら見ていると、「乾氏」「一井氏」(櫟)もやはり「九里」であった可能性もあるかな~と思い始めた。
そして、中途で土岐氏の家臣となるあたりも、やはりどこかで九里も関係があったと思う。
それにしても「浅小井深尾氏」! あ~びっくりした~~!