「天武天皇 隠された正体」関裕二著 ワニ文庫
久々に上記の本を読み返してみて、
此の天武天皇の父親が聖徳太子という説を信じる。
ただ、私の場合は、そこに崇峻天皇とも絡めた形になるのではないか?と思っている。
田目皇子=豊浦皇子 であり、崇峻天皇が暗殺された後に用明天皇・田目皇子に匿われたのが定世親王であり、豊浦宮に居たとみる。
崇峻天皇の第一子定世親王が聖徳太子であったと仮定する。
さらに系図上では聖徳太子の第二子となる長谷王(泊瀬部の息)が実は聖徳太子自身のことだったのではないだろうか。そうなると、聖徳太子が崇峻天皇暗殺時に匿ったという伝承の蜂子皇子・錦代皇女が長谷王のもとにいたとしても、なんら不思議ではなくなる。
くどいが、崇峻天皇こそが聖徳太子の父親であり、聖徳太子自身が定世親王であったと仮定してみようと思う。
聖徳太子がなぜ天皇になれなかったのか。ならなかったのか。
それは暗殺された天皇の皇子であったからだと思う。
崇峻天皇の息 定世親王=高向王=聖徳太子=長谷王となる。
崇峻天皇 553年生まれで、聖徳太子は574年生まれとされている。
その定世親王が推古天皇の摂政となり、皇極(宝皇女)との息に『漢皇子』がいたのではないだろうか。(常世=漢皇子=天武天皇となる)
聖徳太子は622年に没しているので、予測では、この622年に17歳の宝皇女。622年あたりに天武天皇は生まれたのではないだろうか?
宝皇女は605年あたりに生まれたとみる。
宝皇女は630年に舒明天皇皇后となっている。(推定25歳)
ちなみに天智天皇は舒明天皇の皇后となる以前の宝皇女時代に生まれている。(626年)
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しかし、この説…田目皇子の娘に佐富女王がいて、長谷王の妻となっていたためにそのように感じるのかもしれない。
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定世親王が聖徳太子…
十七条憲法 で世を定め、古代の人が理想郷としていた 常世となるよう・・・
の意味で、息に常世と名付けたのかもしれない。
常世=天武天皇となるのではないか?