九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

やはり気になる臣籍降下の「中原真人」と「長井真人」 (2)

2016-04-14 | 中原氏バラバラ情報
今日はです・ます調になります。(気分で決めていて…ごめんなさい!)

中原関係を調べていたら、えっ…という記述を見つけてしまったのです。

【中原は多氏でもあり、古事記の太安万侶を輩出する。】・・・そうなんですか? 


遺物も出ております。

太安万侶 (コトバンクより…他にも記載有)

古事記の編者。奈良時代の文官で、父は壬申の乱で功績のあった多品治(おおのほんち)とされる。1

1979年1月、奈良市此瀬町の茶畑で墓が見つかり、埋葬されていた墓誌から平城京左京四条四坊に住み、官位は従四位下勲五等、命日は7月6日とわかった。

出土した遺骨は近くの寺に供養されたが、今年7月、かつて安万侶の墓との伝承があった多神社近くの塚に分骨を納める計画が進む。



下記は、文化遺産オンライン

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/135604



そして、もう一つ【豊前宇都宮流佐田氏が中原を名乗っていたことは知られている。】そうなのです。

八田氏に宇都宮氏…これは、江州中原氏に近い匂いがします。


~~~*~~~

もっと驚いたことがあります。ここ3年間の謎が、あともう少しで解けるかもしれません。


転じて【長井真人】の方です。

【日本の苗字七千傑】さんの『施基親王裔』に船木王が載っております。施基(しき)と読む辺りから「磯城」を感じさせます。

しかも、施基親王は、天智天皇の息子。(又の名前を田原天皇とも称されるそうです。)

その天智天皇は、葛城皇子という名前でした。

船木王が長井真人となっているのですが、その船木王の前が「神王」、その前が「榎井親王」

榎井親王・・・たしか、榎井は当麻真人の後継にもおりました。別人でしょうか?  用明天皇の末裔におります。

しかも、用明天皇の皇子に当麻皇子(たいまのみこ)がおり、母:葛城広子 用明天皇の第三皇子 当麻公・当麻真人の祖となっております。(聖徳太子の弟です。)
当麻皇子の又の名前を麿子皇子といいます。


系図的にしますと、

…~皇極天皇~天智天皇~施基親王~榎井親王~神王~船木王(長井真人)

用明天皇の孫 高向王が皇極天皇(斉明天皇)の夫

天智天皇は、皇極天皇と舒明天皇の息子と言われている。(天武天皇という説もあります。)

天智天皇を入れて3代目に榎井親王。(用明天皇を入れて6代目)

用明天皇を入れて4代目に榎井(当麻真人)


用明天皇~田目皇子~用明天皇孫「高向王」の妻 皇極天皇~天智天皇~施基親王~榎井親王~神王~船木王(長井真人)

用明天皇~麿子皇子(当麻皇子)~忍田皇子~榎井(当麻真人)

並べてみると、違いました。

しかし、年代として追ってみましょう。

用明天皇(587没)~田目皇子~高向王妻 皇極天皇(594生-661没)~天智天皇(626生-672没)~施基親王(668-716没)~榎井親王(770年以前)~神王(737生-806没)~船木王(不詳)

用明天皇(587没)~麿子皇子(574-586の間に生~?没)~忍田皇子(?)~榎井(?)

残念です。年不詳が多くて比較はできませんでした。


榎井親王(wikipediaより)

天智天皇の孫にあたるが、各種史書上に叙位任官の記録はない。天平9年(737年)橘少卿(橘諸兄または橘佐為)及び諸大夫らが門部王の邸宅に集って宴会を催した際、門部王の来客を歓迎する歌に和して詠んだ歌が『万葉集』に残っている。

没後の宝亀元年(770年)に兄弟の白壁王が即位(光仁天皇)し、志貴皇子の子女を親王・内親王として扱うこととしたため、榎井親王とも記される。


榎井朝臣(天平神護二年の越前国の大帳使は少目榎井朝臣であった「越前国司解」)など、榎井という名前は見かけますが、関係があるのでしょうか?(福井県史より)



神王(wikipediaより)

神王(みわおう、天平9年(737年)- 延暦25年4月24日(806年5月15日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての皇族。二品・志貴皇子の孫。榎井王の子。官位は従二位・右大臣、贈正二位。吉野大臣と号した。



神王の娘(船木王の妹)
浄庭女王(きよにわじょおう、生没年不詳)は、平安時代初期の皇族。右大臣、神王(天智天皇曾孫)の王女。母は美努摩内親王(光仁天皇皇女)。光仁天皇朝の伊勢斎宮。



長井真人に関しては、今のところこれ以上は進めませんでした。

~~~*~~~

前出の【麿子皇子】ですが、なんと、丹後国 河守の伝説と繋がるのです。九里の祖であるかもしれない沙弥蓮忍が地頭を務めていた場所。

あまりにドン・ピシャリとポイントを突いてきたので、驚いております。

http://www.ryoutan.co.jp/re/oni/2003re4.html


…ということは、【姓氏家系大辞典】の中や、【近江】太田亮他での九里氏に関係する部分で,記載のあった謎の功刀という名前か言葉。

『あるいは云う功力三郎左衛門也とも云い』『功力氏 当麻真人、榎井十八世孫 鴨五郎康祖の男康以 功力太郎と号すと云う』

この謎だった部分が、どこかでつながり、重なってくると思うのです。(宝賀先生は此の「鴨」の部分は「鶴」である、と申しております。)

(私的には、鴨の方がしっくりとくるのですが周囲に都留氏がいるので、ツルなのかもしれません。)

しかも、ずっと、「クヌギ」ではなく「コウリキ」や「クリキ・」・・という不思議な力を持った人という意味かもしれないという可能性も否定できずにおりました。

☆説明が必要な部分を飛ばしています。忘れていました。。ここは、明日説明したいと思います。


人類皆兄弟的になってきました。

どこかで、つながっているものなのです。

まだ、どこでどのようにつながるのかは、立証できてはおりませんが、確信!!






コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« やはり気になる臣籍降下の「... | トップ | 天智天皇陵での鶯 と 新田... »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (りひと)
2020-02-21 19:25:45
ちょっとだけ入れておきます。
船木王と天海ってなんらか関係ありますかね?

天海さんの親のお名前がたまたまなのか?
文殊菩薩ちょっとこだわって福島美里町気になってます。

コロナ対策ヒント出てこないかなぁ?と。
返信する
Unknown (りひと)
2020-05-09 12:53:07
志貴皇子の筋気になりますよね。
あとなんかコメント書こうと思ったこと忘れちゃいました。

そうそう太安万侶関係の方の多治品と三つの文字でしたっけ。おおのやすまろさんはオオノですので大の方の関係者だと思ってるんで好きなんですよね。ただ多氏となると渡来になったりとか怖くなったりするイメージあります。単純に田氏でもいいのかも?田治比でもいいし、丹治比もありそうですよね。タジって音を頼りにしたら文字は最初の文字はあってもそこからはどんな字でもおんなじように思うので。太安万侶だかその系統の神社の行こうかな?と思いながらまだ時期じゃないって思っていたんですけどそろそろ時期かも。確か神事でお湯絡みでおまけの東京ですからね。

あれ〜?太安万侶と稗田阿礼は別人かあ。ただ近い人ですよね。この二人も謎多いんで何か掘ったら繋がりそうに思いますね。書いたのはオオノさんで話したのがヒエダさん?ヒエって比叡とか日枝とかお猿のイメージ先行しちゃいますね。

さっきじゅんさんぽで日光東照宮で三猿やってましたけど、馬を護るのが猿でしたっけ?

命日が6/6でしたっけ?ちょっと掘りたくなりますね。
返信する
Unknown (りひと)
2020-05-09 13:24:27
湯沐令湯沐邑かなり気になりますよ。
小橋と書いてオバセと読むんだっけなあ、地元では。反正天皇イメージして産湯塚かな?と思いながら胞衣塚行ったんですよね。因みに胞衣塚は確か徳川将軍のも東京にあったみたいです。産湯かは分かりませんがちょうどお祭りで御旅所やもしくは関係の神社で井戸はありましたね。そこで塩頂いて来ましたよ。

沐浴って子供生まれる大変だったんですけど今思うと懐かしいですよね。文化なりは継承されそうな感じありますね。生まれた子とその地との縁も感じますし。

湯沐に関しては唐じゃなく漢との接点があったとも思えますし、漢との接点があった民族の可能性ありますよね。太安万侶さんは墨硯も多分接点があるはずなので墨書き土器あたりに関係している民族なら最高ですけどね、関東にも静岡にもありそうですので。民族としては漢のイメージとはちょっと違うようなので若干誤解しやすいイメージもあるように思います。田と多の私のイメージですが。
文化風習の中にいつ日本と交流があったかも見えてくるのもトラップ避けにもなりそうです。

で墓誌が残っている一族は不思議に注目されていないのもびっくりですよね。ちゃんと残しているのに後世の人が注目せず、むしろ書き写したり消したりも出来る方を注目しちゃうのはもったいないですよね。
そもそもそこにその技術がその時代にあったものなので。事実をありのままにリスペクトを持って歴史もみたいですね。青銅器に絵もいれられるくらいですから技術はあったはずですよね。この関係の方々の関わる場所もヒントになりそうですね。
返信する
今、ひらめきました。 (kunorikunori)
2020-05-09 20:49:21
りひと様

多が「おほ」と読むならば、多田「おほた」=太田にもなるんじゃないか?って。
いい加減ですが、大江広元の妻は多田氏から来ているのですが、寒河江のほうに移ったとしても、途中からよくわからなくなっていて…
でも「太田氏」ならわかる。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

中原氏バラバラ情報」カテゴリの最新記事