九里 【九里】を探して三千里

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和田惟政と磯野秀時 秀時と顕如・教如 

2023-03-31 | 九里バラバラ情報

磯野定秀の三男 秀時

その定秀の曾孫に惟政がいるのだが、秀時の孫の年代にしては、おかしくないか???

1571年 和田惟政は戦死している。1530年あたりに生まれたようだ。

一方の磯野秀昌(員昌)は1523年生まれで、惟政と7歳しか違わない。

養子なので、秀時の正確な生年はわからないが、変だと思う。

他にも右馬頭秀時が存在していたのかもしれないし、そうなると和田氏でないかもしれない。

此処は掘らずに進む。

 

****

 

私が気にかかったのは、顕如とその周辺である。

顕如の師であった証如、さらに遡り証如の祖父に【蓮淳】がいる。

 

蓮淳は九里と琵琶湖で遭遇していたようである。

 

高島門徒の掌握を目指していた蓮淳、と書かれている。(講座 蓮如 第5巻)

 

於 1 -湖上-遇,九里作守兵船-尤,之。合山門,而直参,山科,供奉而従,大津,乗,御船?甲 3 武士五顕為。御迎 1 遣,大船大津一其子明宗叙山槽那院無動寺行調,于洛中之乱;聖人御真影実如上人,円如公堅田御下向。明 1 永正四年六月二十三日。香西又六令,賊。(真宗 史料集成 蓮如とその教団 ↓ 以下も同様)

 

而直"参山科,供奉»而從大津¡乗 ň 御船、甲冑武士五六十人奉三警固也、於三湖上,遇:九里美作守兵船"尤之、須臾"言止,而二十五日曉天堅田 ... 云云、時蓮淳公仰云、堅田小邑;両新在家御下向則日還御、 11 11 淳公建三立`赤野井御寺時、慶信赫鷳謂蓮淳 1 日.

 

湖上-遇,九里〈作守兵船-尤,之。合山門,而直参, ... 故蓮淳公為,御寺;同年五月二十日蓮如田御下向有,御指^ ?依,之明顕告,訟実如上人?而無御憤 I 謂,蓮淳公 I 曰赤野井,堅田可,有,御兼带, 550 故蓮淳公堅于,時大津近松蓮淳公建,立赤野井御寺,時。(故蓮淳とあるので1551年以降の記述)

 

本願寺法難史には以下のようにある。細川政元が殺された時(1507年)なので、足利義澄の時と思われる。

義澄が歿したのが1511年である。さらに前の実如の時代に堅田の実如の乗った船にイチャモンを付けたかもしれない九里美作…だったが、一発触発の危機を、何とかお互いに無事にやり過ごしたようである。

 

 

 西湖と大津・東湖の連絡に船を使い、その船を九里も持っていたようだ。

湖上の警備・取り締まり?も兼ねていたのかもしれない。

この時代(1507年)だと、九里美作守賢秀か息九里員秀の時代であろうと思われる。

九里四郎次郎員秀は今堀日吉神社に文書を13通残しているが、いずれも1501,1502年の物である。

九里備前守は九里信隆(1511年六角の策略に落ち生害)と思われるため、九里員秀が美作守を父が歿した後に受け継いでいたかもしれない。

私が見た文書では九里員秀が登場していたのは1507年までであった。この後には文書は見えなかった。

 

蓮淳は1464年生~1550年歿

 


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