九里 【九里】を探して三千里

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原大夫上総介高成・高春 と 平忠度 そして 熊野別当湛快の娘

2019-12-26 | 雑記






http://www.hatamotokaneda.com/kazusakaneda-history/kk001/kk1e-hirotsune.html



一番下のあたりの文(上総金田氏の歴史(歴代記)さんのページより)

3月13日 壬寅
  尾張の国住人原大夫高春召しに依って参上す。これ故上総の介廣常が外甥なり。また薩摩の守平忠度の外舅たり。平氏の恩顧を為すと雖も、廣常が好に就いて、平相国に背き、去る治承四年関東に馳参する以来、偏に忠を存ずるの処、去年廣常誅戮の後、恐怖を成し辺土に半面す。而るに今廣常罪無くして死を賜う。潛かに御後悔有るの間、彼の親戚等多く以て免許す。就中高春その功有るに依って、本知行所領元の如くこれを領掌せしめ、奉公を抽ずべきの旨仰せ含めらると。
(現代語)
 3月13日 壬寅

 尾張國に所領を持つ武士の原大夫高春が、お呼びに従って参りました。この人はなくなった上総權介廣常の甥です。又、薩摩守平忠度は高春の甥であります。平家の縁が近い人であるけれども、廣常の方の縁を慕って、平相國淸盛に背を向け、去る治承四年に関東へ飛んできて以来、ひたすら忠義を尽くしてきました。去年廣常が処刑されたとき、その縁で同罪扱いされることを恐怖して、田舎にひっそりと伏せるようにしていました。しかし今となれば、上総廣常は罪がないのに処刑してしまった事を、密かに後悔し、その親戚の人たちの多くは許されました。中でも、高春は元々手柄のある人なので、本来の所領を元のとおりに知行して、頼朝様に尽くすように、お言葉があったという。

===*===
memo

上總國二之宮は橘樹神社。

片岡氏も何等か関係がないかチェック。


===*===

もう一度復習すると
「貞能を尾張で扶助していた原の太夫高春は、千葉上総介広常の外甥で、薩摩守平忠度の外舅である。」

千葉上総介広常の妹が妻となった原高成。その息(広常の外甥)高春

平忠盛の妻となった原高春の姉。
薩摩守平忠度の母となる。

高春の姉が平忠盛の妻となり、忠度の舅となる。(忠度の外舅)

wikipedia情報では平忠度の妻は「熊野別当湛快の娘」という。
忠度は「紀伊国の熊野地方で生まれ育ったと言われており、熊野別当湛快の娘で湛増の妹でもあった女を妻としたこともあったようである。」

熊野のことは、この方のページ!↓

http://www.mikumano.net/setsuwa/tadanorino.html

なぜ忠度は熊野で育ったのか。忠度の母と云われている原高春の姉ではないことになるかもしれないし、または、高春の姉が熊野にいた事のある女性であるのかもしれない。高成の妻が熊野と関係のある女性であったのかもしれない。


平忠盛の経歴を見ると、
「備前守平正盛の子。母は不明。
妻は「仙院之辺」女(白河法皇の寵女)、修理大夫藤原宗兼女(藤原宗子)、皇后宮亮源信雅女、大宮権大夫藤原家隆女。

官途は左衛門少尉、伯耆守、右馬権頭、越前守、備前守、左馬権頭、中務大輔、美作守、尾張守、右京大夫、播磨守、内蔵頭、刑部卿。

この尾張守である時に原高成と知り合ったのかもしれない。


「この平忠度の妻が湛快の娘(=湛増の妹)」

「湛増の妻の母は鳥居禅尼」と情報にある。

湛増ー妻は鳥居禅尼娘
湛増ー妹は平忠度の妻

次の所が大事なのだが、

・・・・その後、熊野山領の三河国の竹谷・蒲形両庄のことで、その決定があった。当庄は、開発領主散位俊成が熊野山に寄進したことから始まり、熊野別当湛快(※第18代熊野別当※)がこれを領掌し、女子に贈与した。

件の女子は初め行快僧都(※後に第22代熊野別当※)の妻であった。後に前の薩摩守の平忠度朝臣に嫁ぐ
忠度が一谷において誅戮された後、没官領(※もっかんりょう:平家が没落・滅亡した際に朝廷によって没官された所領。その多くが後に源頼朝に与えられた※)として、武衛(※源頼朝※)が拝領なさる地である。

それなのに、領主の女子が元の夫の行快に懇望させて言うには「早く事情を関東に愁い申し、件の両庄を元に戻したい。もしそうなれば、将来、行快と自分の間にできた子息に譲ろう」と。この契約について、行快僧都が熊野より使者(僧栄坊)をよこして言上したところである。

行快というは、行範の一男、六条廷尉禅門為義の外孫である。源家においてそのつながりは特別である。よってもとより重んずるところであり、この愁訴を、あれこれいうことなく聞き入れた。また御敬神のためでもある、と云々 。

===*===
太字の場面だが、違う人の筆では以下のようになっていた。
http://green.plwk.jp/tsutsui/tsutsui1/chap2/04hushicho.html


『新宮水軍の大将は法橋・行忠で、彼は参陣の際、かつて父・行範が源為義から引出物として与えられた源氏重代の名刀「吼丸」を献じているから、湛増に劣らぬ数々の恩賞を賜わったに違いないが、その資料が何も残されていないのは残念である。

義経は勿論、疑い深い頼朝は平治の乱以来の平家党である湛増を信頼せず、源氏の血をひく行快、行忠らに期待していた事は、行快が「一の谷で戦死した忠度の所領のうち三河ノ国蒲形の庄だけは元来が私の妻であった忠度夫人の持参したものだから没収するのを許してやって貰えまいか」と願い出るや直ちに了承している事実からも察しられる。

平家物語は壇ノ浦当時の熊野別当を湛増としているが、湛増が正式に21代別当に任じられたのはそれから三年後の文治三年の事で壇ノ浦に出陣した熊野水軍は湛増の率いる田辺水軍と行忠の指揮する新宮水軍の連合艦隊で総大将の義経も湛増より行忠を信頼していた事は其後の歴史から見ても明らかである。』

義経と熊野水軍(源氏の味方となっている)。

平忠度の平氏側 VS 鳥居禅尼も応援する義経の源氏側

平忠度の母かもしれない原高春の姉 VS 源氏を応援する立場となった原高春


弓の名手として伊勢の海賊から恐れられたと『古今著聞集』に記された行快が行範の息であり、為義の外孫!という事で、

平を応援していた行範 と 源の血を引く行快


為義の娘が行範の妻鳥居禅尼。
その行範と鳥居禅尼の娘は、18代熊野別当湛快(1099年 - 1174年)の次男湛増(21代熊野別当)の妻になった。



===*===

行範は湛快の姉か妹の息である。
平氏に氏を賜わった行範はなぜか妻が源氏の鳥居禅尼。

http://green.plwk.jp/tsutsui/tsutsui1/chap2/04hushicho.html

(8)熊野水軍、出撃す
 湛増配下の田辺水軍、行忠(*1)の指揮する新宮水軍併せて二百余隻、二千余人の堂々たる熊野連合艦隊が故郷を出撃したのは元暦二年(一一八五)二月に入っていたと思われ、その先陣を承わったのが鵜殿党の猛者達だった事は吉川英治氏の新平家の説く通りであろう。
 新宮水軍の大将軍に弓の名手、二十二代別当・行快(*2)でなく法橋・行忠が任ぜられたのは母、鳥居禅尼の意向だったらしい。彼女は父・為義から贈られた源氏伝来の名剣「吠丸」(後に薄緑と改名)を義経に贈って勝利を祈願している。

「薄緑」は、後に吉野で義経の身代りとなった忠臣・佐藤忠信に与えられて彼と運命を共にした。あるいは、腰越滞在中に箱根権現に神助を願って献じられた後、曽我ノ五郎の仇討に活躍したとも伝えられている名剣である。この秘剣を頼朝でなく義経に贈ったのを見ても、鳥居禅尼が義経を如何に愛していたかゞ判る。

(*1)二十二代熊野別当。鳥居禅尼の孫。湛増の甥。
(*2)鳥居禅尼の子。湛増の義兄弟。

===*===

ちょっと寄り道になったので、原高成に戻ろう。千葉氏さんの「伊勢平氏」のページより
http://chibasi.net/kazusa07.htm



平忠澄の娘を娶り、桓武平氏との関係を強化した「原高成」(広常の妹か姉が妻)
原高成は、平忠盛に娘を嫁がせることで、伊勢平氏との関係をも強化していた。


そして、時代が源氏に傾いた際には、息高春は頼朝の配下についた。
しかし、1183年(寿永二年)頼朝による上総介広常の誅殺の際には、驚き「半面辺土」したという。
この半面辺土とは、どこかに逃げ隠れることのようであり、
私はそれが「浪合」であったのではないかと思う。

違うだろうか。



さらに、頼朝の怒りが後悔となった際、原高春は所領を安堵されているらしいが、そのなかに元々上総介広常の所領であった「茂原」も入っていたのではないだろうか。

常忍が晩年に戻ったという場所である。

まだ、原高春と富木蓮忍・常忍との関係は明らかではないが、何かしら、そこにつながってくるように感じたのでメモしておく。



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2 コメント

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Unknown (りひと)
2019-12-29 10:16:40
上總國二之宮は橘樹神社なんですね。

二之宮というと実母を知らない母のイメージ持ってるんですけど橘樹神社なんですね。私の行った事のある橘樹神社は女系っぽいイメージなんですよ、熱心に祝詞上げていたおばあ様の印象でそうなっただけなんですけどね。上總國広いですね。江戸もガッツリ入る事になる。橘樹神社他にあるなら探さないとなあ、千葉で。

それから三河だったかな?女系もしっかり土地の管理していてまたちゃんと主張も出来るんですね、さすが。
あっちの方は嫁入りとなると娘いると大変なんて文化にも関係してくるのかな?頼朝は結構素直な感じですよね、失敗して反省して後悔して供養してが多い。また事情も知っているからそうなるんでしょう。けど周りに振り回されてもいるので可哀想な一面もあるし、劣等感を持っているゆえに自己肯定感がないような部分も感じちゃいますね。そのおかげで今文化財等も復興されている感じもありますね。でその知識が家康あたりにも生きているようにも。

あと大抵母がはっきりしないと言うのは怪しいですよ。一般的には書かずともメリットがないように思えますが日本の歴史の中のフィクションがあるならば大抵本来書かないといけない後世に繋げて反省材料にもしなきゃいけない事をあえて消す事です。お母さんがいないと生まれないはず、いないわけがない。ならば書かない理由は一つ嫉妬ですよね。役割がかぶる事への嫉妬とか元々持っていた物への嫉妬以外には考えられない。

別件で壇ノ浦とかも昨日も調べる事になりなんかやらされている感じで拒否したいんですけど、好きなプロガーさんの記事も連動しだしたりして平氏と北条多いです、本来源氏のが今年は神社周りで数十年ぶりに戻ったのに。一族の縁っていうのもイメージと違うんですかね。最近源氏が赤く見えてきちゃうのも中に赤が透けてみえているように感じるのかな?

頼朝の周りも家康の周りもとにかく女系で成り立っている事を意識しだしてからみんな親戚じゃんって思って仲良く出来ないのかとは思ってます。で子孫繁栄にも直結しているような所もあるので息子いなくても娘でお互いフォローもしている節も見えるんですよね。
冠の名字もいっぱい替えられてるのは古代からずっとのようにも思いますね。
失敗して後悔して供養しての心により伝説が残ってきているのも確かです。それをそのまま反省しないのはその後の子孫としてもとばっちりですので事実がもっと流動的でありその個体によって感じ方も違い
それに素直に従っていくとより生活の中の弊害も無くなるように思うんですよね、やばい対立構図とかもみえてくる。
でどちらにも両方ともに人間とか生き物共通として対立派閥でも同じように対応出来るのが素敵な生き方。
それが得意な一族もいますので今後その方々が評価されてくるといいですね。九里さん期待しております。

昨日は戦国武将ランキングやってましたけど、イメージって画一的ですが地元では違うなら地元の評判のが信憑性が高いので各地の影に隠れた優れた偉人も各地で注目されてくるといいですね。土地と人の縁は多分嫉妬されても変更出来ないでしょうから。縁や想いの強い人にドンドン託して行かないといけないですよ。

国司より郡司をたどると見えないものが見えてくるかもしれませんよ。大名は時の権力者が知識あって配置されている感じもありますね。現世も学べる事多いですよね、郡司その役割と意味よりもお金とか名誉になったら怖いですからね。任期がある国司より大事ですからその土地にとっては。住民は郡司と協力して意見を国司をコントロール出来たら一番早く復興出来るかもしれませんね。
偉さよりも生活や関わってきた全てを忖度しないでぶつけられるのは女性なのかもしれませんよね。

酉の市はなんか本年はこの女系に関わっていそうな予感です。稲毛三郎さんの所と原町で頂いて来ました。
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行き当たりばったりでスミマセン。 (kunorikunori)
2019-12-29 21:43:38
りひと様

「国司より郡司をたどると見えないものが見えてくるかもしれませんよ。」のヒントありがとうございます。
どうしても、目立つ人物や、調べやすい人物を先に調べてしまうので、きっと大きく抜けていると思います。

周辺事情が合致すると思っても、意外に佐々木氏の周辺事情であったり、難しいです。

ただ、今までは柏原藩の九里氏は「岡田」を名乗っていたので論外の九里氏と思っていたのですが、

良峯姓がクローズアップされてきて、佐々氏(前野氏)が養子に入ってきている事からも、実は九里氏の祖に近い存在であったように感じてきました。

来年に持ち越しになってしまった「九里氏」の祖の先祖探求ですが、またよろしくお願いいたします。

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