web情報の吾妻鑑に、ほほぅ。。。と思える場面があったので、そのままここに留めておきたい。
現代語建保四年(1216)閏六月小十四日丙寅。中原広元さんは、今月一日大江性へ戻りました。天皇の許可の内容を、二階堂行光を通じて、将軍実朝様に申し入れました。すぐにその許可状の写しを書き写して保管したそうです。
正四位下行陸奥守中原広元が、恐れながら謹んで申しあげます。
特に朝廷の恩を戴いているので、先例に倣って中原性を戻して大江性にしたい願いです。
右については、広元が謹んで先例を調べましたところ、事情があって性氏を直す事は、中国の常道手本、我国の恒なる規則にもある。理氏は李に直した。これは老子(李性)よりも先です。姫性は蒋にかえました。これも周公旦(姫叔旦)の後です。田口斉名は紀性に直し、弓削以言は大江としました。日本・中国の例は沢山あります。散位従四位上大江惟光は、実の親子なので継ぐのが妥当でしょう。従四位下行掃部頭中原広秀(季ヵ?)には、育てられた恩がありますけれど、性を変えたいのです。中原性は大勢になり性を継ぐ者が沢山おります。大江は見ずに流れるように縁者が少ないのです。早く元の性に戻って、絶えそうな性を継ぎたいのです。願わくば、朝廷は先例に合わせて、中原性を変えて大江広元に戻すように、命じていただければ、ますますもって朝廷を敬い、儒学の道を復興することを知られるでしょう。広元が恐れ敬いながら申し上げます。
健保四年六月十一日 正四位下行陸奥守中原広元
正二位行中納言藤原隆衡が、宣言します。天皇の許可があったので、申請通り認めます。
同年閏六月一日 大外記兼筑前守中原師重〔命じられて書きました〕
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この場面、大事!
本来名字が変わらない物だとインプットしてしまっている現代人にもとても必要な場面ですね。
おまけに偉い方から頂いたりしたらお返しするのも恐縮してしまいますね。
実は私も絶えてしまう名字という物に取り憑かれて生きているのかなぁ?なんて記事みて感じてしまいましたよ。
で古代では高麗福信さん(本人の意向でのち変えた?)とか藤原時代なら藤原鎌足(亡くなった跡に頂いた?)とか蘇我氏と石川氏(時代により変更したり戻したり?)の混乱とか本人の意向がない場合もありそうなんですよね。都市伝説の次元かもしれませんけどね。でそうすると名字与えたり変えたりする人間の意向がチラつくんですよね。
という事でそこに縛られても見えてこない物がありそうですよね。ただそういう微妙な問題には大抵近くに関わる方がいて文書なり金属や石にも書き連ねてくれている方の想いも見えてくる事あります。
藤原藤太もです。
地名にしても愛称にしても呼び慣れたまたその方や土地に密着した物が継承していたら問題ないのですがイメージ良いものに変えていた時代もありますので逆にそこに縛られずに楽に考えてもいいと思います。
ただたどるためにはキーワードなり意味合いはいい感じで出てくるでしょうね。
ただ実績や慕われ度は土地直結ですのでのちの方が何か作ってたり伝説とか由緒とかで残してくれてます。猿藤太さんなんかはそこで亡くなっただけのようにも感じますが日本人てちゃんとエピソード残してくれてます。源氏に関係する方でもあるのでその土地また母が関係してくるんだろうと深読みしてますけどね、今はたまたま出会った土地の歴史に過ぎないただの謎です。
でそれが長い年月かけて自分の頭の中でコラボし始めているようにも思うからワクワクするんですよね。
テレビで一昨日あたりでチラ見したのは明智光秀がやっつけたのがどこの一族だったかな?&刀紹介していたようした。本能寺の変の本題には絡まないちょっとした事が気になるのも面白いですよね。
大江さんと古代だと大兄も大阪だと大枝もかなり気になってます。江と兄と枝この辺りも字そのものにも興味あります。音と同じ文字数もこだわるのでエと読む古代の漢字も今度たくさんピックアップしておきます。
相当の知識がある方でビックネームの裏にいるけど、表にも出ない理由に名前や文字が関わってるなら考え方に幅をもたせておくと安心ですよね。
名前の文字ひっくり返しも結構ミスとかあえて書いてある方が怪しく思うようなひねくれた見方と逆に書いてある物に忠実になんでも素直に受け入れる見方と両方の自分を持ってみると冷静でいられるように思いますね。
広元の親も祖父も大江姓であるのに何故中原にしたのか
親が早世して中原家に養ってもらったわけでもなさそうだし。元暦元年(1184)10月6日に公文所を設置するが、この時は大江広元別当としている。
また文治元年(1185)11月29日、広元の進言により義経を捕えるための組織として守護地頭を設置しています。
しかし建久2年、3年(1191~92)の周防国屋代庄の
安倍守信への公文補任状と
地頭大江広元が周防大島郡全体の地頭職になれた時の補任状は「中原」と記している。
建久二年の文書(山口県文書館蔵)
花押
殿下 御領
屋代御庄
補任惣公文職
散位 安部守真
右人以為惣公文職任先例懈怠専御務可執行萬雑事者
御庄官等宜承和用故補任如件
建久弐年三月廿二日
地頭中原 在判
建久三年の文書(山口県文書館蔵)
前右大将家政所下周防国大島三箇庄并公領住人可早
前因幡守中原朝臣廣元為地頭職事
右去文治二年十月八日御下文書件島者平氏知盛卿謀反之時
構城郭所居住也 其間住人字屋代源三 小田三郎等
恠令同意始終令結構彼城事所業之旨旁竒恠也
早以廣元為地頭職任先例可令勤仕本家所役矣者而
今可成政所下文旨依仰所改如件以下
建久三年六月三日 安主藤井 判
知家事中原
令民部少丞藤原 在判
別當前因幡守中原朝臣 在判
前下総守源朝臣
散位中原朝臣
「別當前因幡守中原朝臣」これが広元ですね。
下記に出てくる日記を読むとわかるのだと思います。
以前見つけた記事には「中原」は人数がたくさんいるが、大江氏は少ないために復姓するということでした。
確かに、長男も逐電している、他の息もいつ戦いに敗れて死んでしまうかもわからず…で、自分が一時復姓し、ついで、と考えたのかもしれませんね。
「欲があって」、と書かれた本もありましたが、別に欲ではないと思います。
【大江広元日記】(※「扶桑見聞私記」)76巻本
https://blog.goo.ne.jp/magohati35/s/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%BA%83%E5%85%83
屋代庄があったのですね。これは長井庄の屋代庄なのでしょうか?(置賜の)
もしも、ココと関係のある屋代様でしたら、意外と九里とも近いのかも??
確か、廣元の母が中原広季に嫁いでいたはず。
で、母は違うけれど、藤原姓の親能の母も中原広季に嫁いでいたはず。
異母兄弟、且つ本当の父も違う異父兄弟。
久安4年(1148年)大江維光の妹が嫁いだ「藤原光能」を父、先祖に白河院、堀川院の時に和漢、和歌の才人として著名な「大江(江)匡房」を持ち、京都に生まれる。後に、母が「中原廣季」と再婚してその養子となる。
この元は扶桑見聞のようですが、三次資料のようですね。
広元の直系、毛利本家史料はこのようにはしていません。
毛利本家(萩藩主)系図は廣元は維光四男とします。
また、維光の兄弟は
長男 保延六年生 匡範
二男 親光
三男 時房
四男 久安四年生 広元(三十八代主)
五男 秀厳
長女 伊賀守藤原仲教室
二女 不明
三女 大蔵大輔藤原重保室
とあり藤原光能ではありません。
広元が一時中原を名乗っていたのは史実なので
なにか別の理由があると思えます。
毛利家家譜が説明しないのは都合の悪いことがあるのかもしれません。
尚、屋代庄は現在の山口県大島郡周防大島町となります。この島は全体で屋代島と中世は呼ばれています。この島の内、平成合併前の旧大島町が屋代庄となります。大江広元はまずこの島のこの地域の地頭に
補され、のちに島全体を補されます。安藝(広島)に下ってくる前から周防に領地がありました。
この島は最近では島に架かる橋にドイツ船が衝突し一ヶ月断水したとか、行方不明の子供を大分の人がきてすぐみつけたので彼をマスコミはスーパーボランティアと命名したりしました。
歴史の好きな人には民族学者宮本常一の故郷であり
歌謡曲の好きな人には作詞家星野哲郎の故郷としても知られています。
海賊好きの人には村上海賊惣領村上武吉終焉の地と
しても知られていますが、今や過疎の島です。
大江(毛利)家中興の祖だったのですね。毛利元就や輝元の方がビッグネームですが今回を機に見直しますと
毛利の礎をきづいたのが廣元と認識しました。
やはり別ブログからの刺激は今まで見ていた筈の資料を
別の角度からみることにより理解が深まります。
ありがとうございました。
大江が大枝と名乗っていたころは単なるペーペーですね。領地を拡大するのは廣元からです。
これは頼朝の側近行政官としての手腕が買われたものと思われます。頼朝幕府(鎌倉)を二分し崩壊に導きかねない、源の一方に派閥の首領である弟の義経のグループを壊滅させる必要に迫られます。
廣元はまず平家の没官領の行政府として公文所組織を提案しこれが全国に施行されます。
ついで、義経一派を捕まえるため、守護地頭制度を作り天皇の裁可の元で守護地頭の任免権を鎌倉幕府(頼朝)に集中させます。
この制度を根拠に頼朝の息のかかった関東武士が鎌倉から全国に赴任し始めて安心して自国を治め、収入が安定する経済基盤が作られました。
或る日突然征服者がやってくるので各地でいざこざが発生しますが中央で裁判するシステムも整えましたので全国平和となっていきます。
鎌倉室町期の騒動はほとんど中央政権内の派閥争いですね。
鎌倉武士の恩賞は領地が基本です。
領地の支配権を与える代わりに鎌倉に何かあったときは馳せ参じることが条件でしたね。
所謂「一所懸命」 NOT「一生懸命」でした。
前置きはさておき、大江毛利家領地の変遷を見てみます。
文治二年二月七日
河内国毛受庄 毛上(モズ)宿祢受領
文治四年二月七日
肥後国山本庄 廣元受領
(熊本県鹿本部山本村)
理由 義経・行家誅伐の賞、頼朝より頂戴
文治四年十二月十二日
周防国務理郷島末庄 広元受領
(山口県大島郡船越以東油田に至る地)
文治五年十一月
出羽国寒河江庄 廣元受領
(山形県寒河江)
建久年中
相模国愛甲郡毛利庄 廣元受領
(神奈川県愛甲郡小鮎村付近)【毛利改姓の地】
建久二年三月二十二日
周防国屋代庄 廣元受領
(山口県大島郡旧大島町)
建久三年六月三日
周防国大島三箇庄並公領 廣元受領
(現 山口県大島郡周防大島町全域)
*建久三年七月十二日
頼朝、征夷大将軍になる。
*建久三年八月五日
鎌倉幕府を開く
*建久三年八月九日
頼朝の次男、実朝誕生
建仁三年十一月九日
武蔵国高麗郡 頼朝より廣元受領
(埼玉県入間郡の内)
建保元年五月七日
武蔵国多摩郡横山庄 和田合戦の効により実朝から 廣元受領
(東京府南多摩郡八王子附近)
建保元年五月七日
常陸国下之内 廣元受領 五千町部
(不明)
建保元年五月七日
甲斐国森本 廣元受領
(不明)
と経済基盤を広げて行きました。記録に残るのが上記ですが、まだまだ埋もれた領地もあるでしょう。
鎌倉幕府の記録まだまだ埋もれているのでしょうね。
IT時代ですので次々と発掘されるでしょうね。
鎌倉初期は平家の没官領の再配分ですから与えられるものがあり御家人たちは「勇気凛々瑠璃の色」でしたでしょう。
元寇の時は勝っても与えられる敵の領地がないので
戦役者の不満轟々でしたね。
人間貰えるものが少ないと離れていくのは現在と同じですね。
同じことがそろそろ中華人民共和国でも起こりそうですね。
大江廣元の鎌倉屋敷は
「鎌倉雪ノ下、頼朝館西門外辺」となっています
息子の季光は「頼朝館向辺」となっていますので
頼朝屋敷の隣ですから相当信用があったのでしょう。
この時代の鎌倉の屋敷絵図を探しています。
同じ頃、伊予河野の鎌倉屋敷は材木座とされます。
廣元の墓は「鎌倉法華堂後山」となっていますが
現在どこにあるのかわかりませんが知ってる方は教えて下さい。
廣元の法名は「覺阿大禅定門」で
神号は「廣元命」です。
広元、私の参考にした系図
この系図が正しいのかどうかまではわかりませんが、東京大学史料編纂所にあった系図です。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/b1bf855b384f32a2ecfe8215659e61b4
尾張の血が入っている系に続くので、頼朝の始りから文官として参加したのだと思っております。
私は萩藩毛利本家に伝わる系図で説明していますので
毛利自身の系図ですので一応こちらを上としています。
但し系図は都合の悪いことや、編纂年により脱落や挿入もありますから絶対ということもありませんが。
系図が二次資料と言われる所以ですね。
このような記事がありました。
http://amigokamakura.sakura.ne.jp/ishibumi/210-ooe-hiromoto-tei-ato/setumei-bun-210.html
こちらは?如何でしょうか。
http://23.pro.tok2.com/~freehand2/rekishi/hiromotohaka.html