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因幡国司であった【平時範】の日記 (3)高庭荘の「高庭介」そして、相撲人

2020-07-10 | 永田氏

東大寺領荘園であった高庭荘を支配していたのが「高庭介」であるという。

高庭庄 コトバンクより
因幡国高草郡(現,鳥取市)にあった荘園。756年(天平勝宝8)東大寺野占使(やせんし)平栄らが,国司と在地の豪族国造難磐(かついわ)の協力をえて占定した勅施入地に発する。その地積は67町9段余(ただし見開3町9段余)であったが,765年(天平神護1)墾田長国造難磐の売進田5町8段余を加えて73町8段余となった。しかし801年(延暦20)に至り,東大寺三綱は55町1段余を代価4000束で参議藤原縄主に売却し,803年には12町8段余が代価1000束で因幡守藤原藤嗣に売却された。

因幡国(いなばのくに)高草郡の荘園。現在の鳥取市域内に比定される。東大寺領。756年(天平勝宝8)東大寺野占使平栄(やせんしへいえい)らが現地に赴き、国司(こくし)および在地の豪族国造難磐(くにのみやつこかついわ)の協力の下に占定した勅施入地(ちょくせにゅうち)に起源をもつ。全地積67町9段余(うち見開田3町9段余)に、墾田長(こんでんちょう)となった難磐の売却田5町8段余を加えて73町8段余であった。801年(延暦20)東大寺はこのうち55町余を代価稲4000束で参議藤原縄主(ただぬし)に、803年12町8段余を1000束で因幡守藤原藤嗣(ふじつぐ)に売却した。東大寺の手元に残った5町8段余のうち収益の見込める得田(とくでん)は2町に満たず、寺使を派遣して失地回復を図ったが失敗に終わり、10世紀末にはほとんど実質を失い荒廃の地となった。[阿部 猛]
『阿部猛著『日本荘園史』(1972・大原新生社)』

経俊の時代には、名前だけ「高庭介」ということになっていた可能性もある。
高庭介経俊。
高庭介資経。

===*===



この系図の資経が源頼朝に親族の資家をつけた。(心強く思ったに違いない)



譜第相撲の家系でもあり、1174年 承安四年の記事の「尾張長経」も関係があるのでは?と思う。
以下の記事を見て欲しい。





長田氏は伊福部氏とも尾張氏とも重なっている…という事になるのだろうか?
もう少し調べてみたい。

平時範が因幡国に赴任していた時に見える人名をメモしておく。
介久経
親定(貞)…税所執行職
常方(経)
常貞

品治郷司(邑美郡)
政重
介助貞

八上郡司 国忠

野見郷司(高草郡)真遠

土師郷(智頭郡)季兼

介邦真


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