前回の【神皇紀】から、関係のありそうな箇所をピックアップ。
(三浦義継のことが義綱なのかもしれない…)
義綱の嫡子義明は三浦平大夫為道の娘を室とし、三浦郡を食み、衣笠城に居る。
久寿二年(1155) 三浦大佐に補任。
義明に六子あり。長男義顕、次男義澄という。
義顕、源為義の娘若櫻姫を室とす。
義顕、保元の乱に敗走、近江佐々木秀義館に匿われる。
平治の役、義朝につき、敗走。熱田大宮司の館に役ず。
三河・遠江を経て,駿河の富士川に至る。
敵に襲われ、大宮に逃げる。
応保元年(1161)に富士山元宮 大宮司 宮下記太夫政仁は、三浦上野守義顕の長子源甚吾重成 事 源九郎を以って養子となし、長女春子に配し、熱田大神宮尾張源國住と譲り、これに太神宮の大宮司を譲る。
名字官名を賜わり、宮下源大夫義仁と称す。
そこで、大事な情報が入ってきました。
この義仁と和田義盛の祖父はともに三浦義明。
和田義盛が富士の山に潜んでいたかもしれない‥‥という情報です。
もしも、そうならば嬉しい限り。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/?mode=m&no=715
イヤー面白いデス。
源頼朝は、長田藤資家や、その息 忠利に会いに、行ったのではないでしょうか?