九里 【九里】を探して三千里

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多賀家物語の中 の 気になる点 (1)改訂

2020-04-22 | 多賀氏

紫色が「多賀家物語」の本からいただいた文である。

中原成行の兄弟経行の系が九里氏につながる。成行の方が長野氏・多賀氏につながっている。

1028年 中原成行は平直方、次いで源頼信に従って出陣

一方、敵であった平忠常は…
長元4年(1031年)春に平忠常は出家して常安と称し、子2人と従者をつれて頼信のもとへ出頭して降伏した。平直方の征伐にも屈しなかった忠常が、頼信の出陣によりあっけなく降伏したのは、忠常が頼信の家人であった(『今昔物語集』)ためであるともいわれている。

中原成行も同じく源頼信の家人であったそうである。

平忠常の息常将の妻は「天女」と言われており、江州中原氏の女である可能性も高いとみている。
天女伝説は近江国の余呉にもあり、千葉(上総・下総?)にもあるためである。

源頼信の母が、藤原南家の元方の娘か、その息の藤原致忠の娘と言われている。
その藤原家は黒麻呂の直系である。

其の黒麻呂がいた場所が「藻原」である。

===*===

万寿元年(1024年)平常長(常将と中原女との息)は
前九年の役・後三年の役で源頼義・義家父子に従って戦功を立てたとされる。戦後は上総国大椎に館を構え、さらに下総国千葉郷に進出して千葉大夫と号したとされる。

江州中原仲行、源頼義・義家に従って従軍している。

さらに、1156年保元の乱では、千葉介周辺の動きはわからないが、佐々木秀義方についていた多賀景定は敗れて蟄居している。
其の蟄居先が佐々木秀義と共に「東国」であったとも考えられるのではないか。
員弁郡周辺への蟄居は承久の乱あたりかもしれない。

===*===

1242年 佐々木家の分裂 六角・京極
長野家は京極に属す。
とある。

その時には江州中原経行の系からは「九里」が出ていて、六角についたことがわかっている。
和歌山の九里系図には六角氏頼に仕えていることが書かれており、京極の名は和歌山系図にはなかった。

しかし、京極にも九里がいた可能性はゼロではなく、その後の様子を見ると、居た可能性の方が大きい。
(和歌山の系図には「小堀氏」の名の記載もある。)

それは、京極・六角に分かれたその時に九里も分かれたのではなかったのかもしれない。
しばらくしてから、であったかもしれないと思う。

私は京極の中にも九里がいて、その九里が近江水茎城でのことで「九里」を名乗ることを嫌がり、「久徳」と名を変えたのではないかと思っているのだが、どなたか詳しい方がいらしたらご教示いただきたい。

それとも「久徳氏」はもっと以前から其の名前を名乗っていたのだろうか?











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9 コメント

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気にかけて下さり、ありがとうございます! (kunorikunori )
2020-05-20 13:31:21
三銀蔵 様

気にかけて下さって、感謝デス。
場所、了解いたしました。
ありがとうございます!
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Unknown (三銀蔵)
2020-05-20 12:26:35
検索中にこちらにたどり着き、履歴からコメントしておりましたので、
行方不明になってしまいました。すみません。
観音寺、繖山が目の前の、旧中山道沿いにお住まいですよ。
現在は近江八幡市です。
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観音寺の近く、 (kunorikunori)
2020-04-27 15:23:04
三銀蔵 様

久郷さんが観音寺の近くに…現代のお話でしょうか?
私は北海道在住の為、ほとんどが机上です。
ご地元の情報、ありがとうございます。

どこかで「九里一族らしい名前」を見かけた際には、どうぞよろしくお願いいたします!
返信する
Unknown (三銀蔵)
2020-04-26 22:44:34
応援、ありがとうございます♪
お名前、インプットしました。
久郷さんなら、佐々木六角の観音寺城の近くにおられますよ。
歴史があるお家とお見受けしました。
返信する
探し求めているのは、 (kunorikunori)
2020-04-25 15:43:49
三銀蔵 様

ありがとうございます。
探し求めているのは「九里」(くのり)に関することです。
多賀も九里も同じ祖(江州中原氏)で、多賀は中原成行から、九里は中原経行からで、成行・経行は兄弟です。

で、たぶん佐々木京極氏の家臣にも「九里」がいたはずなのです。それが見つからないもので、久徳かな?と思ってしまいましたが、【旧徳】からの変化ですと、それはありえないですね。失礼しました。

江州中原時代には伊香郡に居住していたはずで、九里の祖の一代前の経任の兄「中原景経」は富永荘の召次勾当でした。

で、系図は九里の祖から4代分しかなく、その続きかも知れない系図が和歌山から出てきて、それによると佐々木六角氏頼に仕えています。

が、私自身の系は、周辺事情がどうも佐々木京極に仕えていたと思えてならないのです。

時代も長く経ているので、その間に移ったり戻ったりもあったかもしれません。

・・・という、きわめてアバウトな中での模索中です。

九里・久里・久利・九法・久乗・久郷…等、様々に書きますが、皆一族と思って探しています。

明智氏と佐目は、本当に新鮮で面白いです。
応援しています!!

返信する
Unknown (三銀蔵)
2020-04-25 14:04:13
大垣と多賀は、そう離れていませんよ。
昔から行き来があります。
久徳は、鎌倉幕府の直轄地「旧徳宗領」が変化した地名です。
たしか、実時の兄弟が、大垣に移ったと読んだ事があります。
多賀氏も久徳氏も、全国に散らばっています。
名前を変えている方もおられます。
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Unknown (三銀蔵)
2020-04-25 13:35:42
こちらこそ、ありがとうございます。
今は、どうしても光秀が中心になってしまい、関係がありそうな情報を詳しくお伝えできません。
確か、あの本にあったはずとか、思うところもあるのですが。
多賀氏物語、購入しました(笑)
全ての記事を読んでおりませんので、何を目的にされているのか、把握できておりませんが、他の事を調べている時に、目に留まる事もあるかもしれませんので、気になられる事がありましたら、ダメ元でお知らせ下さい。
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コメントありがとうございます! (kunorikunori)
2020-04-24 11:23:04
三銀蔵様

コメントありがとうございます!
そして、貴重な情報もありがたいです。
京極高長の弟 定高からということですね。

今ふと調べてみましたら、
大垣の久徳(久得)の荘園データが1192年からあり、犬上の久徳のデータが1354年に初見。
二つの場所は思っていた以上に離れていますね。

京極定高の久徳氏ではない、久徳に関係した人物も「久徳」を名乗っていたかもしれない。なんてことも考えられるのかもしれない…と。妄想中です。

また、あらためてこの周辺を考えたいと思います。
ありがとうございます!

三銀蔵さんのページ、すごく楽しいです。
またお邪魔したいと思います!


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Unknown (三銀蔵)
2020-04-24 00:19:27
多賀高忠の父、高長の弟、定高が 久徳氏の祖で、永享年間の頃だそうです。
何冊か、多賀氏、久徳氏に関係する自費出版のマニアな本を読みましたが、系図は色々で、明智光秀に昔の旧きよしみで、山崎の合戦に、関ヶ原で石田三成について敗れた世代は、どうも、改変されているようです。
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