https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/198341
久里双水古墳の盤龍鏡 ↑
何処から来た鏡なのだろうか。
古墳時代開始前後における 西北九州地域の鏡とその変遷
辻 田 淳一郎 著
…の論文の中に答えがあった。
【中国製・後漢代の盤龍鏡1面が出土した。】とある。
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/4372119/158_pa049.pdf
…全体を概観すると、まず弥生時代後期については、唐津市桜馬場遺跡に代表されるような、大型後漢鏡を副葬する時期(後期前葉~中葉)と、唐津市中原遺跡を中心として完形後漢鏡の破砕副葬が行われる時期(後期後葉~終末期前後)に区分することができる。
古墳時代前期については、前期前半と前期後半に区分した場合、久里双水古墳が前期前半、経塚山古墳・谷口古墳・杢路寺古墳が前期後半に該当する。
古園遺跡 ST26古墳は、後述するように前期中葉前後の年代を想定する。
このうち前期後半の3基の古墳から出土しているのは、魏晋鏡と「仿製」三角縁神獣鏡であり、近畿地域の政治権力により贈与されたものと考えられる(辻田2007・2010)。
図1は唐津市周辺の拡大図であるが、唐津市西部の松浦川流域に桜馬場遺跡・中原遺跡・久里双水古墳・古園遺跡などが集中することが確認できる。
久里双水古墳から見ると、中原遺跡や古園遺跡はいずれも半径2~3km 圏内に位置している。これに対し、前期後半に魏晋鏡や「仿製」三角縁神獣鏡が副葬される経塚山古墳や谷口古墳は、この図の右上に位置する鏡山を挟んで東側の玉島川流域に築造されており、弥生時代後期~古墳時代前期前半とは遺跡の分布を異にするという特徴がある(辻田2009a)。
久里双水古墳と谷口古墳は直線距離で約9km 離れた位置にある
以上の点をふまえた上で問題となるのは、近畿地域から鏡がもたらされるようになるのがどの段階であるのか、またそれ以前はどのような形での流入形態であったのか、という点である。
・・・
久里双水古墳のことも多々記述があって、明日論文内にある詳しいことは書こうと思うが、私が思っていた以上に大きな重要な古墳であったことがわかり、嬉しい!
鏡は中国から朝鮮半島に渡り、そこと近畿とつながりができて移り、九州にということのようだが、朝鮮半島に近い国なのにダイレクトに入っていなかったことには訳があったのだと思う。
例えば、一度近畿に重要人物として来ていた人物や一族の女性かこどもであった…など、
または、過去に末盧國に住んでいたが、近畿に移り住み、歿した後にまた故郷へ。…などなど。
または、末羅国にいた人物に近畿より嫁いできた女性であった…など、
百済・新羅との接点だけではなく、近畿との接点が絡んでくることがわかり、事は複雑である。
明日考えてみよう!
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久里双水古墳にあった【盤龍鏡】とは、どのような意味を持った物だったのか、一例(中国の鏡)の説明を見ると…
盤龍鏡
ばんりゅうきょう
中国・西晋時代 4世紀
青銅
13.7
1面
内側には2匹の龍が右回りにうねっている姿が描かれている。また、その周囲には銘文がめぐっており、「陳□氏」がこの鏡を作り、保有する者は高位に就き、富に恵まれるといった内容が記されている。日本列島では出現期の前方後円墳に出土が見られるが、中国では華北から東北地方にかけて分布の集中が見られる。
他の例では「龍は魂を天界に運び、龍は悪鬼を食らう」ともある。(兵庫県立考古博物館)
また山梨の埋蔵文化財センターでは「日本には、古墳時代に朝鮮半島を渡って伝来したと考えられています。」とある。
鏡の他、久里双水古墳の近くの久里小学校で出土されたもの。↓
中細形鉛矛
ちゅうぼそがたなまりぼこ