九里氏が船木庄代官であった明応九年・十年に「九里貞秀」と「九里員秀」の名前がある。
代官は一人であるという事ならば、上記の二名は同一人物となると思うが、親子であった可能性もあるかもしれない。ともに「四郎次郎」と称している。
飛鳥井氏からいただいた蹴鞠の文書も、貞秀と呼んでいる人、員秀と呼んでいる人がいて、紛らわしい字体であることは確かだ。
忠富王記の中に員秀の娘が大内に宮仕せること明応七年とある。大内とは、大内裏 (だいだいり)の略である。
明応七年、1498年、大地震が九月にあった年である。
金田庄内にある金剛寺の納豆を京都の相国寺に献上していることが書かれているが、この金田庄と船木庄が良好な関係があってこそと思われる。
金田秀宗と同じく「秀」のついた九里員秀・九里秀雄。
因みに 浄椿は九里秀雄、その父は九里高雄という。
この九里四郎次郎員秀は、忠富王を通してだと思うが、天皇と関わりを持てる地位にいたことになる。
娘が大内裏に宮仕できる家柄であったことが、其の証のようにも思える。
父、九里四郎次郎員秀はとても喜んでいる様子なので初めてのことであった可能性もあるが、そのラインまで登っていたのだと思う。
金田氏に関しての情報は少ないのだが、以下が見つかった。
また、父が金田河内守実綱、とあったが、兄として金田河内守実継が記載されている文献もあった。(浅井日記 末)
金田 佐々木義賢兵 金田河内守
上記の「佐々木義賢」は、六角高頼の孫、六角定頼の息である。その六角義賢の家臣に金田氏がいた。
この金田氏は、菖蒲佐々木氏と関係はないのだろうか?と、そこが気になっている。
下記の埼玉の苗字の中にも記載がある「金田」
長井氏の名は、保元物語に「長井斎藤別当実盛、同三郎実員」、又「弟の三郎実員」。平家物語卷七に「斎藤実盛、もとは越前国の者にて候ひしが、近年御領に付けられて、武蔵国長井に居住仕り候ひき」。源平盛衰記卷二十八に「平家の侍、武蔵国住人・長井の斎藤別当眞盛」。典籍古文書に「建治元年五月、武蔵国・長井斎藤五郎左衛門尉跡五貫を京都六条八幡宮の造営に負担す」。太平記卷十九に「ここに国司(北畠顕家)の兵に、長井斎藤別当実永といふ者あり。利根川を渡さんと、長井斎藤別当・舎弟豊後次郎兄弟二人これを見て、『人の渡したる所を渡っては、何の高名かあるべき』と、ともに腹を立てて、これより三町ばかり上なる瀬をただ二騎渡しけるが、岩波高くして逆巻く波に巻き入れられて、馬人ともに見えず、水の底に沈んで失せにけり。その身はいたづらに溺れて、屍は急流の底に漂ふといへども、その名は永くとどまって、武を九泉の先に輝かす。『さてこそ鬚髪を染めて討死せし実盛が末とは覚えたれ』と、万人感ぜしことばの下に、先祖の名をぞ揚げたりける」と見ゆ。
鎌倉大草紙に「応永二十三年上杉禅秀乱。上杉憲基に従う兵には長尾出雲守・大石源左衛門・羽継修理太夫・舎弟彦四郎・安保豊後守・帷助五郎・長井藤内左衛門、其外木部・寺尾・白倉・加治・金子・金田を始として、宗徒の兵七百余騎打立けり」と見え、長井氏家譜には「長井藤内左衛門実則」とある。但し、武蔵名勝図会に「上杉禅秀乱のとき、管領憲基に従い参りける長井藤内左衛門尉というは長井掃部助入道法禅の子息なるべし。この長井の家は大江広元の子孫なり」と見ゆ。
別府文書に「享徳十六年十一月十五日、足利成氏は、玉井・長井・別府等の不参を難じ、長井庄以下の所領を没収し、結城七郎氏広に与う」と見ゆ。
図書館のレファレンスにヒントがあるようである。
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000041434
康正2年(1456)に菖蒲城を築いたとされる古河公方足利茂氏の家臣金田式部則綱および鎌倉府から古河公方(5代)までの佐々木氏や菖蒲佐々木氏の動静については郷土資料に詳しい。
しかし〈近江の六角佐々木氏〉から〈菖蒲の佐々木氏〉に繋がる系図については、多くの史料で疑問視しており、正確な系図は見つからなかった。
金田式部則綱
金田河内守実綱
金田河内守実継
金田監物秀宗
・・・この秀宗だけ名前が違っているので、九里の出?かもしれないと思ったりする。
縁あって養子に入ったなど、何かありそうな気がしている。
さて、上記に貼った荘園時代の中に「九里氏領」があった。
場所は真野がいた場所に近いと思う。
さらに、私領を持っていたメンバーを見ると室町時代に活躍していたと思われる面々が揃っていて面白い。
佐々木氏はもとより、宇津呂殿、九里氏・桐原氏・小森氏・池田氏・津田氏・京極氏・浅小井氏・平井氏・馬淵氏・河野氏・鏡氏・花山院家・唐橋家・蒲生氏・田井氏・儀峨氏 である。
田井氏という苗字は初めて聞いたので、これから調べてみようと思う。
さらに、宇津呂氏だけは「殿」扱いになっていることも気になった。