【伊賀守元忠】は岡田竹右衛門尉元次の祖父である。
祖父ではあるが、岡田氏とは限らないことに気が付いた。
鳥居伊賀守元忠だろうか?
疑念を持ちつつも調べてみると、面白いことがわかった。
鳥居元忠の娘が「土岐定政」に嫁ぎ、その定政は「菅沼」を名乗っていて、後にあらためて土岐に復姓していた。
其の定政は明智光秀のまたいとこ、だそうである。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いや天正18年(1590年)の小田原征伐でも軍功を挙げたため、征伐後に家康が関東に移されると、下総相馬郡守谷に1万石を与えられた。・・・とwikipediaにあるので、その時に岡田氏も共に?相馬郡へ…だろうか。
その定政の妻には、鳥居元忠の娘の他に、神尾刑部少輔守世の娘もいた。
この神尾守世の母親は「阿茶局」であり、いかにweb情報の経歴があったので、一部分をコピーした。
阿茶局
1555年 1歳 武田家家臣、飯田直政の子として甲斐国に生まれる
1573年 19歳 一条信龍の家臣、神尾忠重に嫁ぐ
1574年 20歳 神尾守世を出産
1577年 23歳 夫、神尾忠重が死没
子息として神尾守世・神尾守繁、養子として神尾元勝(=岡田元直の兄弟)・高源院 (鍋島勝茂正室)がいる。
神尾 元勝(かんお もとかつ、天正17年(1589年) - 寛文7年4月25日(1667年6月16日))
江戸時代の旗本、茶人。江戸時代の歴代町奉行の中で、もっとも長期間奉行職を務めた。通称は五郎三郎。官位は内記、従五位下備前守。剃髪後に宗休と号する。子に元珍、娘(西郷延員室)、娘(柴田勝興)室がいる。
岡田元次の子として誕生し、神尾忠重の夫人で後に徳川家康の側室となった阿茶局の養女を娶り、神尾家に養子に入った。慶長11年(1606年)、家康に登用されて徳川秀忠に拝謁、書院番士に選出される。その後小姓番、使番、作事奉行と累進し、寛永11年(1634年)に長崎奉行に就任、寛永18年(1641年)には殉職した加賀爪忠澄の後任として南町奉行に就任した。
そして、更に岡田元次は「相馬利胤」と関係もある。
慶長7年(1602年)12月に徳川秀忠の養女という形式で、旗本の岡田元次の次女を継室に迎えた。
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さて、この岡田氏の出自は一体どこにあるのだろうか。
鳥居氏か?
菅沼氏(土岐氏)か?
飯田氏か?
上記にある「書院番士」は、江戸中期の岡田寒泉(善里・恕)の系でもある。
この寒泉の父は岡田善富、その前は…善房~善紀~善政 となる。
さらに前は重善~與九郎(智恩)~與七郎(中務少輔・道慶)~與七郎(尾張國岡田原)
このどこからか、別れた系が元次につながってくると思う。
與九郎の兄弟に以下がいる。
重季(與十郎)・重通(又八郎)
この又八郎かもしれない。
九里政直は幼名又八とよばれ、八郎右衛門で、しかも隠居してからは「清左衛門」と名乗るのだが、寒泉も清助と清の字を使っている。
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だが、岡田伊賀守元近、存在しているようなので、鳥居ではないかもしれない。
兄弟かもしれない。
これからあともう少し進めることができれば…以下のアドレス「中村藩 相馬忠胤」の中の系図が参考になる。
http://chibasi.net/hanshu2.htm
の発音が気になりました。
神尾氏は松平(徳川)の家来の一人と思われます。
現在でも、愛知県岡崎を中心とする三河地区に繁茂する一族です。
ただ、神尾(かんお)と呼ばずに、地元では(かんの)と発音します。
部外者の私にはよくわかりませんでしたが何か、謂れがあるのでしょうね。
「松尾神社」を「まつお神社」と発音しておりましたら、京都の方から「まつのぉ」神社と言われたような記憶があります。
そうなりますと「神尾」も「かんのぉ」となり、短くなって「かんの」となったのかもしれません。
古代の発音から引きずっているのかもしれませんね。
「何故かんの?」と聞いたら
「さあ、昔からだって・・・」(笑)