九里 【九里】を探して三千里

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【佐々木加地八郎左衛門実秀】と【三善・富木(富来・富城)】との関係

2018-01-19 | 佐々木氏
因幡国富城蓮忍・常忍と三善康連(太田乗明)が繋がり、その三善康連の祖母が大中臣倫兼女であった。
三善の叔母(倫兼女の姉)は源頼朝の乳母であった。

その三善康連の兄である「行倫」が、加賀 階田村地頭富来左衛門三郎行倫ではないかと思う。
網野善彦 著作集4巻には、「酒見両村地頭尼浄智も、三善氏の女性ではなかろうか。」と書かれている。

その尼浄智だが、調べてみると加治八郎左衛門女となる。
そこで、以前調べた時に出てきた下記の記事が重要になってくると思う。
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2/s/加治

文永2(1265)年6月15日『胤員・実秀連署状』という文書である。


【書名】
中山法華経寺文書(紙背文書)
【著者名】

【原蔵者】
法華経寺(千葉県市川市中山2-10-1)

原寸大写真(「双紙要文」紙背文書,「天台肝要文」紙背文書,「破禅宗」紙背文書,「秘書」紙背文書)
参考:中尾堯編『中山法華経寺史料』第三刷(請求記号:1015-305-(a))

86(「破禅宗」紙背文書第6号)

【形態】
1枚
【注記】
平胤員・源実秀連署書状(年未詳六月十五日)[首欠]

~~~*~~~
以下は、千葉一族様のweb情報からだが、

◎文永2(1265)年(?)6月15日『胤員・実秀連署状』

 又此躰ニ御さたある事共も候へハ、同ハとく御上候ハんはよくこそ候ハめと、
 人々申あひて候、又今者、向後の奉行もさたまり候ハんニ付候ても、 是ニ御渡候由、
 仰も候こそ、憑しく存候、又境の絵図、忩可給候、若上ニおそく御上候とも、
 けニゝゝしく、向後をも諸共に聞候ぬへき殿原四五人も、被差上候ハてハ、
 御向後叶候ましきよし、因幡公も申候、以此等之趣、委細ニ可令申入給候、
 恐惶謹言
     六月十五日            平胤員(花押)
                      源実秀(花押)
  謹上 富城入道殿

…というものである。



中原師重の妻は三善康信女。
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/abc08cef8a5df9ed303a06f4ed53094c



私的に新たな情報がwebにあった。

まず、加地信実(実秀の父)の娘が頼仁親王の室となり道乗僧正が生まれる。http://d.hatena.ne.jp/muoon/20110323

この信実は上記の実秀の父親である。

ということは、この実秀と道乗僧正は従兄弟ということになる。訂正:叔父と甥でした。スミマセン。

https://ja.wikipedia.org/wiki/頼仁親王


さらに図書館から借りてきた本「日本中世の身分と社会」丹生谷哲一著 塙書房
ココには、富木常忍に関して「国府の役人である在庁官人」であった可能性が書かれていた(石井進氏の説)。

googlebooksには「本姓が熱風」とあり気になって借りたのだが、その部分は実際の本の中では「本姓は中原」であり、と書かれていて安心した。
どうして、機械は熱風と読みこんだのか。。。googlebooksはヒントになるが、気になる部分は実際の本で確かめなければいけない!という啓示と感じた次第。






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