中原橘次経任は「経たか」とも読める。

そして、佐々木経高の母親は宇都宮氏である。(父は佐々木秀義)
佐々木哲学校の記事より (一部略)
佐々木兄弟 歴史 経高流佐々木氏
佐々木経高(?-1221)秀義の次男。母宇都宮宗綱娘。佐々木次郎。中務丞。中務入道経蓮。相模渋谷荘司重国の娘婿になる。…子息高重は戦いに敗れて、猷子渋谷四郎とともに紀州の熊野方面に逃走しましたが、…略…子孫は北条泰時の言葉とおり赦免され、高重の子高兼(左衛門尉)・孫高清(左衛門尉)と続きました。
佐々木経高(?-1221)秀義の次男。母宇都宮宗綱娘。佐々木次郎。中務丞。中務入道経蓮。相模渋谷荘司重国の娘婿になる。…子息高重は戦いに敗れて、猷子渋谷四郎とともに紀州の熊野方面に逃走しましたが、…略…子孫は北条泰時の言葉とおり赦免され、高重の子高兼(左衛門尉)・孫高清(左衛門尉)と続きました。
経任の息九里経久の名前はその中には無い。
しかし、母親が宇都宮氏で、波多野で暮らした…中原経高を称してもいた…
渋谷重国の婿となれば橘樹郡(相模)と関りがあったかもしれず、橘も使っていたかもしれない、しかも次郎。などなど気になる点がある。重国の父・河崎重家や祖父・基家(秩父武綱)は武蔵国橘樹郡(川崎市川崎区)に住していた。
宇都宮某の妻は波多野の出身かもしれないと思う。
経高は1142年 - 1151年の間に生まれ、そこで育てていたとなると、中原久経と同世代であり、もしも中原経任が佐々木経高となると、久経の兄弟であったかもしれない。
以前(2015年)佐々木先生に質問した際の答えがある。
『佐々木次郎経高(母宇都宮氏)は渋谷庄司重国の女婿で、烏帽子親は相模波多野氏です。烏帽子親は波多野右馬允義常(義経)と考えられます。』
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つまり義常の姉か妹の息の中原経任の烏帽子親となった…は充分に考えられることだ。これは、中原久経の兄弟の【経任】となるのではないだろうか?とすると久経の母は宇都宮氏とごく近い中原氏に嫁いだことになる。
つまり、波多野(松田)義常…父は波多野義通
非常に中原久経と近い! 義常は「久経の母」にとって兄弟にあたる。
久経から見ると叔父に義常がいたことになる。
波多野義通は1167年に歿し、義常は1180年に歿している。
佐々木経高は1221年に歿している。
以前は中原経任とは別人と判断したが、
宇都宮氏周辺が少々分かってきた事で、中原経任と佐々木経高は、いまは同一人物かもしれないと思う。



千葉成胤の娘の息ではないかという富木常忍とどのような形でつながるのだろう。
千葉成胤の息胤綱の妻が佐々木信綱の娘となる。
信綱は経高の兄である定綱の息である。

