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富木蓮忍入道、1221年以降に因幡国に赴任したと仮定する。

2019-03-01 | 九里バラバラ情報

富木蓮忍が因幡国 国衙 目代の事務方(在庁官人)として1221年以降に赴任したとする。
そこで、一体どなたの下で働いていたのか、ここが知りたいのである。

以前の佐々木哲氏のメルマガより 関係部分を書き出すと、

国衙(国役所)で常勤していた在庁官人であったと推定できる。彼らは国司が派遣した目代の指導の下で事務を勤めていたが、必ずしも一方的に国司に従っていただけではなく、ときには反抗することもあった。江州中原氏は在庁官人であり、諸国の中原氏の中にも十市首流中原氏ではなく江州中原氏がいた可能性がある。

因幡の守源通具(権中納言通親卿給)1186年(吾妻鑑)

~~~*~~~

ここでweb上にある、因幡国史に関する記事に助けてもらおう。
http://www.megaegg.ne.jp/~koewokiku/burogu1/1019.html

この中にいる「藤原親実」とその息「親氏」が、まず関係がありそう。
この藤原親実=中原親実=大江親実は大江氏中原氏の系図にも出てくる。
さらに秀郷流の大友の系図「魚名流藤成子孫(秀郷流)」にも能成の息として、また中原親能の為子と書かれている。

藤原氏系図では魚名流魚名流末茂子孫の中に「藤原親実[ 仁安3(1168)年 ~ 建保3(1215)年8月 ]成親男。母源忠房女二条院女房。
元久2年正月5日(ユリウス暦:1205年1月26日)叙従三位。正三位・非参議。」とある。息に確かに親氏がいる。

大江氏系図では、忠順の息であり、周防守である。親実の息に親氏はいない。
中原氏系図も同様である。

やはり二人いたのだろうか。
一人は魚名末茂流の親実。息は親氏 中将。正四位下。1231年(寛喜三年)因幡国主となる。
もう一人は大江・中原・大友の親実。(広橋氏にも近い関係)

親氏のことを考えるに因幡国知行国主は魚名末茂流となると思われるが、
富木蓮忍との関係性で見るに、大江中原の親実となる。

悩ましい。。。

しかし、末茂流藤原親実の父は成親で鹿ヶ谷の事件のために「備後国」に配流されており、何らかの影響があって、その後大江・中原氏の中に入ってきたのかもしれない??

もしかすると同じ鹿ヶ谷の事件の関係者ということで、だろうか?

事件の概要はどのようだったのか、wikipediaからコピーしてみよう。


出撃直前の6月1日、清盛の西八条邸を多田行綱が訪れて平氏打倒の謀議を密告した(『平家物語』、ただし『愚管抄』は清盛が福原を立つ前に行綱と会見していたという)。

『愚管抄』によれば、後白河が静賢の鹿ケ谷山荘に御幸した際、藤原成親・西光・俊寛が集まり平氏打倒の計画が話し合われ、行綱が呼ばれて旗揚げの白旗用として宇治布30反が与えられたという(ただし、慈円はこの事件に関する記述については「一定の説は知らねども」と真相を確認した訳ではないとも記している)。

また『平家物語』によれば、成親が立ち上がって瓶子(へいじ)が倒れ、後白河が「あれはいかに」と問うと成親が「平氏(瓶子)たはれ候ぬ」と答え、俊寛がそれをどうするか尋ねると西光が「頸をとるにしかず」と瓶子の首を折り割ったという。なお、この会合を比叡山攻撃の方針を確認した会合に過ぎなかったとする見解もある。

多田行綱は明雲捕縛に失敗したという行きがかりがあり、会合の目的が延暦寺攻撃・平氏打倒のいずれにしても何らかの軍事行動に加わる立場にあったと推定される。

清盛は直ちに西光を呼び出して拷問にかけ、全てを自供させると首を刎ねた。
同じく呼び出された成親も拘束された。成親の妹を妻にしていた重盛は、命だけは助かるようにすると成親を励ましたという(『愚管抄』)。

西坂本まで下っていた山門の大衆はこの動きを知ると、清盛に使者を送り敵を討ったことへの感謝を述べて山へ戻っていった。

4日、俊寛・基仲・中原基兼・惟宗信房・平資行・平康頼など参加者が一網打尽にされ、5日、明雲が配流を解かれた。9日、尾張に流されていた師高が、清盛の家人の襲撃を受けて惨殺、成親は一旦は助命されて備前国に配流されるが、食物を与えられず殺害された。

~~~*~~~

ここに出ている康頼は前回の記事で、中原康頼として登場させていた。

中原基兼も非常にアヤシイ。

富木蓮忍を調べていて何度もこの事件が出てくるという事は、やはりこの中の誰かが関係しているのではないだろうか。

基仲・中原基兼・中原康頼、そして藤原成親その息丹波少将成経。

この三人に関係するとなると、かなり蓮忍の親・親戚などか、上司か、誰かに接点があるのだと確信に近くなってきた。

…となると、その事件のことがあって鎌倉幕府のもとに入ってきた人物なのではないだろうか。






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1 コメント

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Unknown (りひと)
2019-03-01 21:45:29
まじ凄い情報ですよね、鹿ヶ谷って。
さっきちょこっと調べただけでも色々と関連が出てきますよ。
でお二人いる件ですが、あれって下が本当なんですけど上が藤原で盛っているとも思いますよ。
藤原って取って付けた名前なので少なくてもいい筋はほとんど入っています。それが養子かもしくは実子としているか?全く関係なくても入れてそうにも思います。魚名さんもそう思うんですよね。
キーワードは魚?

あと喜界島ではなくもっと上の島と島の間の島がそうなんですね?真言宗の僧が念仏唱えながら亡くなったってお話ですけど結構本物ですよ。真言宗は多分絡むはずですし、念仏もね。
あと同じ鬼界ヶ島ですけど、地図で奈良も出てきましたよ。ここも怪しいですね。鹿ヶ谷相当凄いヒントみたいですよ。

あと宇部神社の件も、近くで装飾古墳出ていて梶山古墳って梶付いてますから怖い怖い。
そして道教の影響ってのもこちらにも関係すると思います。麻績王って大昔からずっと追っていましたけど鳥取にお墓あるって完璧過ぎますね。おまけに装飾古墳。

で凄いの出ているようですね、あの辺で。文字まで。
文武天皇の采女が私が言ってる鳥なのかも?
多分もっと前の時代にも鳥が捕まっていますよ。
で麻績王を鳥取に行かせたのは天武との説ありますけどありそうですね。天武と武内宿禰って同じ武ありますけど怪しいなあ。本来の祭神は伊福部なんですよね。この氏は以前友人がとても気になっていましたよ。
蘇我でいうと馬子の位置に本来入る方の系統が麻績王で伊福部になりそうに思います。

私は鳥について采女とか妃とか連れて来られた女性をちょい調べてみます。
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