昨年の暮、サーバー機の馬鹿でかく重い98のモニターをブラックフェイスの薄く軽いものに代える決心をした。時々見えにくくなるし、もう寿命も尽き果てようとしている。壊れるまで使うのもいいがこれで限界だろう、もう壊れているのかも、と感謝して勇退してもらった。
物があふれて雑然としたパソコンの部屋にいるのが、つらくなっていたので、この機会に大幅な模様替えをすることに決めた。、メタルのラックを動かすと重いサーバーと引き出しとで塞いでいた本箱の下が見えるようになった。
そこにはぎっしり文庫本が詰まっていた。人から見ればつまらない本ばかりだけれど、自分なりの、何度かの選択で淘汰した挙句に残ったもので、愛着があったり、読み返すかもしれないと思ったりして捨てられないでいた物ばかりだったが、図書館にありそうなものは思い切って捨てることにした。そうでもしないと、限りある空間、物が納まらない、果ては片付かない。
師走の30日は模様替えに費やした、半日で何とかなるかと思ったが、一冊ずつチェックしていくと時間がかかった、その上御節を作らないといけなかったり買い物もし残していたので、夜になって再開したがもうすっかり疲れてしまっていた、その時、「砂の器」の上巻1冊に下巻が2冊あるのに気がついた。おかしいとカバーをはずすと中から「花の歳時記」が出てきた。一瞬「わっ」と叫んだ。
前に「砂の器」は上下巻捨てた覚えがある。残りは1セットのはずだがどういうわけで下巻があるのか。とカバーをはずしてみて気がついた。
「花の歳時記」は中身がないのを知りながらカバーだけを後生大事に残していて、いつかどこかから中味がでてくるかもしれないと思っていた。
長い間何度も読み返して、大切にしてきた本なのでなくなるとは夢にも思わず、カバーを見ては、自分を責めてきた。それが出て来た。
奥付を見ると、昭和39年の初版本で、中にはカキコミやらチェックやらでなかなか汚く古くなっている。久しぶりに見ると、あげるといわれても嬉しくないような汚れ方で、なんだか哀しくなるようなボロ本の顔になっていた。
でも長い間探していた本が見つかった嬉しさにこんなボロさ加減でもあばたもえくぼ、会社への往復の電車の中で読み、山にもって行き、尾瀬の宿では一緒になった横浜から来たという女性の三人組に見せた。さまざまな思い出が蘇る。
それから以後、眠くなるまでの少しの間読むのに枕元においてある。これには新しく綺麗なカバーでも作ってかけなければ申し訳がない。
結局部屋の片付けは、紅白歌合戦を聞いたり見たりしながら年をまたいで終えた。
なんだか清々してしまって、気持ちのいい年明けで、初詣には家族の健康とともに、本が出てきたこともちょこっとお礼を言っておいた。
新年が嬉しい幕開けのせいか、思い返すと昨年新しく出来た友人たちにも暖かすぎるほどに迎えられ(知り会ったらしばらくは知人と呼び、すぐに友達とは思えないのだが今回の出会いはなんだか違う)。暮に上京して出会った人たちも便りは交わしてきたが長い間会わなかったのに少しも変わらず、時間をさかのぼってでもいるように親しく、名前しか知らなかった人まで暖かく優しかった。いろいろといい事ばかりがあったような気がする。
二月はどうなんだろう。嬉しさに浮き上がらず、心して謙虚に過ごしたいと思っている。