学年はじめに講堂で並んで買う教科書を読むのが楽しみだった。勉強というより新しい読み物が来たというウキウキ気分だ。
高校一年の現代国語の教科書に国木田独歩の「忘れえぬ人々」の一部が載っていた。
雨の日、旅館の一部屋で、文学青年「大津」が丸顔の画家「秋山」と話すところだった。
どんなものを書いているのか見たいという秋山に、大津はまだ草稿なので書きたいことをざっと話すという。忘れてはいけない人々ではなくてふっと思い出すような「忘れえぬ人々」を書こうと思っている、
と言いながら話し出す。
外は雨がまだ降り止まない。
こんな晩は君の領分だねぇ
と秋山はいう。
この「領分」という言葉に、はっとして震えた。画家の秋山が文学者の大津の領分と言った。
寝静まった旅館で、酒を酌み交わしながらの話がふと途切れたとき、この時が大津の領分だといった。
大津は聞いてなかった一言だったが、秋山がその領分を感じて理解できることに深い意味があるのではないかと思った。
それから私の心の隅に「領分」という言葉の部屋が出来た。
いつの間にかできた友人や知人、何かの集まりで知り合った人、古くて長い付き合いの同級生たち。私は話しながら「領分」という言葉に照らす。
そして思い込んでいた近しい人たちの人となりが、一言で新しく輝くときがある。
ああこれかこれに近いところにこの人の領分はあったのか。
心の境界線のぼんやりしたところ、日常の些細な出来事を通して付き合っている人たちの心が、不意に焦点を結ぶように見えるときがある。ここが要注意なのだな、などと思う。
長い付き合いというのは、その領分が、私の心のどこかに重なっている、不断は良くわからない領分とは何だろうといつも思いながら、すれ違う人の領分の照り返しでかすかに自分が見えることがある。
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