1591年(天正19年)2月28日 利休70歳 朝
利休は死を賜った。――あの下司な猿めが、憤怒がたぎっている。
雷鳴がとどろく中、妻の宋恩と広縁に座った。この雨は天のもてなしであろう。
一畳半の茶室に入り、三人の見届け役とともに茶をまわし飲んだ。助命嘆願を勧められたが詫びることなどなかった。秀吉の勘気にふれたと噂が広まったが身に覚えもなかった。
金に明かした秀吉の作動には飽きが来た。
松籟の音を聞きながら、藤四郎義光の短剣を手にした。
「この狭さでは、首が刎ねられぬ」
「ならばご覧じろ、存分にさばいてお見せせん」
ここから時代が遡る珍しい構成。
利休が信長に認められ、秀吉に重用され、茶道頭に上り詰める。ただただ茶の湯にのめりこみ、侘び,寂び、幽玄の世界を追い求め続けてていく。その美に対する天才的に備わった感性と、修練で、茶道具を見分けていく。
堺商人の間で侘茶が広まった頃、信頼の置ける見利きになった利休は、財を蓄え、美を求めて身の周りをしつらえ、そのためには恐れるもののない物言いと行いで、茶道を極めていった。
秀吉に重用されながらも、金に明かした低俗さに、頭を下げながらも心の声が表ににじみ出ている。それを秀吉は憎悪していた。
天下に並ぶもののない権勢を誇っていたが、利休の審美眼の深さには及ばなかった。
利休は若い頃、忘れられない恋をした。思いつめて、高麗から買われてきた女と駆け落ちしようとした、だが捕まる前に毒の入った茶をたてて心中を図った。女は高貴な生まれで下恐れなかった、利休は果たされず生き残り、女の持っていた緑釉の香合を肌身離さず持っていた。噂で知った秀吉が譲るようにいったが頑として受け付けなかった。
大徳寺に寄進した礼にと、僧侶たちが、利休の等身大の木象をつくり山門に立てた。それが秀吉の逆鱗に触れた。
自刃の原因はそのことになってはいるが、利休の厳しい求道の心と、美に対する天性の感、意に叶わないものを認めない頑固な意地、それが、茶道の奥義を窮めたといえ、凡庸であったり、ただわずかに優れているというおごりを持つ人たちの生き方に沿わなかった。
金と権力が全てに通じ、世の中全てを手に入れることが出来ると思う秀吉。ただ戦いの技に優れ、強運と時には卑屈さも使い分ける計算高い秀吉とは相容れない生き方だった、利休は誇りとともに運命に殉じた。
映画化されたときの利休役の、海老蔵さんのカバーが付いている。死を前にして端然と座った姿が美しい。