Cape Fear、in JAPAN

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『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

怒れる牡牛の物語

2013-01-07 00:15:00 | コラム
第15部「原一男の物語」~第2章~

前回までのあらすじ


「学校って面白くないっていう印象があるから、どうのこうのいう前に行きませんでしたね。写真家になろうと思って、経済的に自分の力で初めて東京へ出て写真学校に入ったんですが半年でやめました。お金が続かなかったということもあるんだけど、学校の課題という形で、撮ってこいっていわれるものは撮れなかった」(原一男)

「田原さんの方法論もそうなんですが、とにかくやらせ、つまり田原さんの方法論とも関わってくるんですが、ある状況を作って、その状況のなかで自分がどうリアクションを起こしていくか。で、田原さんのドキュメンタリーの方法論っていうのはもうほとんどそれに尽きるんですね。わたしも基本的にそういう考えかたが好きだし、そういうふうに思うんですね」(原一男…田原さんとは、田原総一朗のこと)

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素材なのか、視点なのか。

ドキュメンタリー作家の才能は、「非ドキュメンタリー作家に比べて」分かり難い。
「非ドキュメンタリー」ではなく「劇映画」といえばいいのだが、本稿ではドキュメンタリーも「劇映画」と位置づけて論じたいため、敢えて「非」としてみた。

ともかく、その分かり難さゆえ「自分にも、出来るんじゃないか」と思いがちである。

実際、筆者も学生だったころにカメラを持ち街に飛び出したことがある。

対象とする人物は、ホームレス。
バイト代としてコンビニ弁当を提供し、彼ら彼女ら―そう、珍しいことに調布市には女性ホームレスが居たのだ―の日常を追った。

しかし肉迫するには遠過ぎる。社会問題として切り取るには近過ぎる。
つまり距離感がつかめず、中途半端にカメラを回し続けることしか出来なかった。

撮った映像も、なにを残し、なにを捨てればいいのかよく分からない。

ここまできてようやく、あぁ台本が必要なのかもしれないな―ということに気づいた。
その前にきっちり対象者と向き合い、信頼関係を築かなければいけないのかも、、、などと思った。

筆者だけではない、友人AもBも、ドキュメンタリーに挑戦していた。
「カメラさえあれば撮ることが出来る」というお手軽感がそうさせるわけだが、筆者もAもBも、結局は完成まで漕ぎつけられなかった。

なんだか悔しくて、そんな夜はレンタルビデオ店に駆け込み、原一男のドキュメンタリーを借りたのである。

すると、どうしたことだろう。
原映画のエネルギーが凄まじいのであろうか、一晩で復活し、翌日には性懲りもなく再びカメラを持って街に飛び出していた。

今度の対象者はゲイ。
いかにも映画小僧が興味を抱きそうな素材だが、これまたうまくいかない。

なぜだ!?

自分と原一男は、なにがちがうというのだ!?

と、サリエリのように映画の神に噛みつく19歳の筆者。

そうして映画の神はいった、

「モノがちがうんだよ、モノが!!」と。

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72年―原一男はデビュー作となる『さようならCP』を発表する。

CPとは「脳性小児麻痺」のことで、しかし、我々がイメージする「身障者の物語」を徹底的に破壊することから、この映画は始まる。

車椅子が大写しにされ、「車椅子のイメージっていうのは白衣の天使に付き添われてさ、保護されているっていうスタイルなんだな」というテロップが入る。

原曰く「車椅子というのは、車椅子のひとが社会へ適応していくための道具として僕らは考えた。膝で移動するという身体の在りようは“歩けない”んじゃなくて、膝のまんまで街へ出てみれば面白いんじゃないの? と」。

出発点は彼らにはなく、原の煽りにあったのである。
こうして『さようならCP』は原の演出のもと、攻撃性に満ち満ちた「刺激的な身障者の物語」を展開させていく。

それを象徴するのが、募金活動のシーンだろう。
募金をしたひとびとに、「なぜ募金したのか」と問うていくのである。

不意をつかれるというか、募金するほうは感謝? はされても、そう問い質されるとは思ってもいないだろう。

CPについては分からないが、カメラが凶器になることだけは分かった―これが当時、『さようならCP』を観たときの、筆者の偽らざる感想だった。

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原は45年6月8日、山口県宇部市で生まれた。

写真の世界を志すも、自分が興味を抱いたものにしかシャッターを押せず、専門学校でも随分と浮いた存在だったという。
そのころに出会ったのがCPの団体「青い芝」と、のちに共同で映画を制作していく小林佐智子だった。

原は小林と「疾走プロダクション」―それにしても、抜群のネーミングセンスである―を立ち上げ、その第一弾として『さようならCP』を発表する。

「処女作には、監督のすべてがつまっている」とよくいわれるが、原一男もその例に漏れない。

しかし原の感心するところは、その鋭い狂気(=カメラ)を自分自身にも向けられるところである。

74年、『極私的エロス 恋歌1974』(トップ画像)を発表。
フェミニストの元同棲相手「武田美由紀」が出産するまでを追った、超のつく異色ドキュメンタリーであった。

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つづく。






次回は、2月上旬を予定。

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本シリーズでは、スコセッシのほか、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ブライアン・デ・パルマ、塚本晋也など「怒りを原動力にして」映画表現を展開する格闘系映画監督の評伝をお送りします。
月1度の更新ですが、末永くお付き合いください。
参考文献は、監督の交代時にまとめて掲載します。

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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』

前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』

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明日のコラムは・・・

『女子の脚、ばかりを見ているわけではない』

コメント (3)
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