「映画小僧が出来上がるまで」の、お話。
10歳―。
自分のアイドルは、成龍ジャッキーだった。
友達が少なかったものだから、ひとり自宅の庭で「成龍ごっこ、のようなもの」をして遊んでいたが、このころから肥満化が進行していたので、見た目は成龍というより洪金寶(サモ・ハン・キンポー)だったけど。
ちなみにキンポーは「その見た目」により日本での評価は低いが、香港では成龍よりスーパースターだったりする。
いくら邦題とはいえ「デブゴン」というのはひどいなぁ、、、などと思ったものである。
当時の日本における成龍人気は凄まじく、運がよければ年に2本の主演作が公開された。
少なくとも1本は公開される―それにしても「ありあまる時間」を持つクソガキにとっては物足りない。
「レンタルビデオ文化」が浸透する前夜であり、というか、そもそも実家にはまだビデオデッキが設置されていなかった。
知識と情報を欲した自分を慰めてくれたのは、映画情報誌『ロードショー』と、テレビで放送される『洋画劇場』だった。
『ロードショー』は、擦り切れるまで読んだ。読み込んだ。
(映画とは無関係な)通信販売の広告まで一字一句に目を通した。
読み終えたら再び1ページ目から読んだ。
それを繰り返しているうちに、自然と米国のスターや監督の名前をソラでいえるようになっていた。
いちばん好きなテレビ番組は『夕やけニャンニャン』(フジテレビ)や『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)ではなく、もちろん『スクールウォーズ』(TBS)でもなく、各局が放送した『○○ロードショー、○○劇場』系の2時間枠であった。
ただ、解説者の好き嫌いはあった。
水野晴郎(日本テレビ)は分かり易いが好きではなかった。
荻昌弘(TBS)は一本筋が通っていて信用出来た。
高島忠夫(フジテレビ)は大袈裟で嫌いだった。
木村奈保子(テレビ東京)は、そのころ唯一の女子「メジャー」解説者であったし、そこそこキレイ、、、というのもあって、けっこう好きだった。
でもやっぱり、いちばん好きで尊敬出来たのは、テレビ朝日の淀川長治だった。
このひとの凄さは、驚異的な記憶力にある。
小さいころに観た映画のひとつひとつを「きのう観てきた」ような口ぶりで話すことが出来る。
こりゃ凄い、小学生の自分でも思ったね。
中学1年―13歳のころだったと思う、『日曜洋画劇場』で成龍の『プロジェクトA』(83)が放送された。
このとき淀川先生が、こういったのだ。
「ジャッキーの動きは、チャップリンに似ている。おそらく本人も、そのことに自覚的である」
え! と思った。
そういう意味ではないだろうが「成龍は誰かの真似をしている」と、自分は解釈した。
オリジナルは、ずいぶんと昔に活躍したモノクロのチョビヒゲ野郎であると。
その1ヶ月後に、NHK教育で『街の灯』(31)が放送された。
それまでにも何度も放送されていたが、ただ「モノクロ」というだけで興味を持てなかったチャップリンの映画・・・映画小僧としての第二歩目が「ここ」、にあったような気がする。
浮浪者チャーリーと、盲目の花売り少女の物語。
中盤まではただただ爆笑し、ラストシーンでは落涙した。
じつは残酷な結末―であることなど、そのころ気づくことは出来なかった。
※そりゃたしかに残酷だ。馬鹿にしてケラケラ笑い「ほどこし」を与えようとした浮浪者こそ、彼女に「ほどこし」を与えた紳士だったのだから。
そうなんだこれは、ハッピーエンドではないのだ。
中学2年の黄金週間―。
自分は父に「旅行なんていい。『プラトーン』を観にいきたい」とせがんだ。
若干「戦争アクション」と勘違いしていたところもあるが、社会派映画を観たいという思いは、チャップリン後期の衝撃作を立て続けに観たからだと思う。
ちょうど同じころ、我が家にビデオデッキがやってきた。
淀川さんの話を聞き、チャップリンに出会い、社会派に目覚め、ビデオデッキによって「ありあまる時間」の使いかたを覚える―映画小僧が二歩も三歩も四歩も前進した、中学時代だったのである。
つづく。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『初体験 リッジモント・ハイ(84)』
10歳―。
自分のアイドルは、成龍ジャッキーだった。
友達が少なかったものだから、ひとり自宅の庭で「成龍ごっこ、のようなもの」をして遊んでいたが、このころから肥満化が進行していたので、見た目は成龍というより洪金寶(サモ・ハン・キンポー)だったけど。
ちなみにキンポーは「その見た目」により日本での評価は低いが、香港では成龍よりスーパースターだったりする。
いくら邦題とはいえ「デブゴン」というのはひどいなぁ、、、などと思ったものである。
当時の日本における成龍人気は凄まじく、運がよければ年に2本の主演作が公開された。
少なくとも1本は公開される―それにしても「ありあまる時間」を持つクソガキにとっては物足りない。
「レンタルビデオ文化」が浸透する前夜であり、というか、そもそも実家にはまだビデオデッキが設置されていなかった。
知識と情報を欲した自分を慰めてくれたのは、映画情報誌『ロードショー』と、テレビで放送される『洋画劇場』だった。
『ロードショー』は、擦り切れるまで読んだ。読み込んだ。
(映画とは無関係な)通信販売の広告まで一字一句に目を通した。
読み終えたら再び1ページ目から読んだ。
それを繰り返しているうちに、自然と米国のスターや監督の名前をソラでいえるようになっていた。
いちばん好きなテレビ番組は『夕やけニャンニャン』(フジテレビ)や『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)ではなく、もちろん『スクールウォーズ』(TBS)でもなく、各局が放送した『○○ロードショー、○○劇場』系の2時間枠であった。
ただ、解説者の好き嫌いはあった。
水野晴郎(日本テレビ)は分かり易いが好きではなかった。
荻昌弘(TBS)は一本筋が通っていて信用出来た。
高島忠夫(フジテレビ)は大袈裟で嫌いだった。
木村奈保子(テレビ東京)は、そのころ唯一の女子「メジャー」解説者であったし、そこそこキレイ、、、というのもあって、けっこう好きだった。
でもやっぱり、いちばん好きで尊敬出来たのは、テレビ朝日の淀川長治だった。
このひとの凄さは、驚異的な記憶力にある。
小さいころに観た映画のひとつひとつを「きのう観てきた」ような口ぶりで話すことが出来る。
こりゃ凄い、小学生の自分でも思ったね。
中学1年―13歳のころだったと思う、『日曜洋画劇場』で成龍の『プロジェクトA』(83)が放送された。
このとき淀川先生が、こういったのだ。
「ジャッキーの動きは、チャップリンに似ている。おそらく本人も、そのことに自覚的である」
え! と思った。
そういう意味ではないだろうが「成龍は誰かの真似をしている」と、自分は解釈した。
オリジナルは、ずいぶんと昔に活躍したモノクロのチョビヒゲ野郎であると。
その1ヶ月後に、NHK教育で『街の灯』(31)が放送された。
それまでにも何度も放送されていたが、ただ「モノクロ」というだけで興味を持てなかったチャップリンの映画・・・映画小僧としての第二歩目が「ここ」、にあったような気がする。
浮浪者チャーリーと、盲目の花売り少女の物語。
中盤まではただただ爆笑し、ラストシーンでは落涙した。
じつは残酷な結末―であることなど、そのころ気づくことは出来なかった。
※そりゃたしかに残酷だ。馬鹿にしてケラケラ笑い「ほどこし」を与えようとした浮浪者こそ、彼女に「ほどこし」を与えた紳士だったのだから。
そうなんだこれは、ハッピーエンドではないのだ。
中学2年の黄金週間―。
自分は父に「旅行なんていい。『プラトーン』を観にいきたい」とせがんだ。
若干「戦争アクション」と勘違いしていたところもあるが、社会派映画を観たいという思いは、チャップリン後期の衝撃作を立て続けに観たからだと思う。
ちょうど同じころ、我が家にビデオデッキがやってきた。
淀川さんの話を聞き、チャップリンに出会い、社会派に目覚め、ビデオデッキによって「ありあまる時間」の使いかたを覚える―映画小僧が二歩も三歩も四歩も前進した、中学時代だったのである。
つづく。
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明日のコラムは・・・
『初体験 リッジモント・ハイ(84)』