Cape Fear、in JAPAN

ひとの襟首つかんで「読め!」という、映画偏愛家のサイト。

『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

ふきかえる

2016-06-11 04:23:59 | コラム
自分の世代までの映画ファン、、、ではないな、おそらく30代以上の映画ファンにとっては、外国映画を字幕スーパーで鑑賞することが正道であり、日本語吹き替えは邪道でしかなかった。

日本語吹き替えで映画に触れるのは「ある程度の覚悟」が必要であり、
たとえばその作品が2度目の鑑賞であるとか、テレビ放映のために「仕方がないこと」であるとか、なんらかのイイワケを用意したりするものであった。

だからこそ、かつて「Wユージ=織田裕二×三宅裕司」で吹き替えた『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(85)のフジテレビ放映に批判が殺到し、
ジェニファー・コネリーを喜多嶋舞が吹き替えた『ラビリンス/魔王の迷宮』(86)を観て、自分みたいな映画少年がズッコケたわけだ。

しかし。
シネコンの影響だろうか、吹き替えこそ正道で字幕が邪道、、、という世の中になりつつある―ことを知って、最初は慄いたが、まぁこれも時代の流れか、しょうがないかもな・・・と思うきょうこのごろである。

ためしに知り合いの10~20代の映画ファンに聞いてみたが、みんな映画は吹き替えで観るのが「ふつう」であるという。

字幕と吹き替え、シネコンで両方がかかっていたとすれば、迷うことなく後者を選択するそうだ。


「それが当たり前だと思っているからです」
「字を読むの、嫌いなんですよ」
「漢字が分からなかったりするし」
「映像に集中出来ないことがありますし」


分かるっちゃあ、分かる。

きのう放映された『ゼロ・グラビティ』(2013)なんかは、じつは吹き替えのほうが「体感的には」適しているといわれている。

平衡感覚が狂うような映像設計を意図しているため、字幕スーパーが出てくると演出効果が著しく低下してしまうためだ。


それでも、やっぱり映画ファンなら・・・と若い子を説教したくなるひとも居るらしいが、

成龍=石丸博也とか、クリント・イーストウッド=山田康雄とか、
ほとんど記号化された声優さんが吹き替えを担当するケースのみにおいて「あり。」とするひとは多く、自分もそんなひとりであり、それを若い子に「矛盾しているじゃないですか!」と突っ込まれたら、うまく反論出来ないところはあったりしてね。


各々が好きなように鑑賞すればいい・・・というのは大前提としてあるけれども、

歌うシーンや嗚咽するシーンだけ吹き替えずに「オリジナル音声のまま」流すケースも多々あり、創り手側は大変だとは思うけれども、
そういう細部まできっちり吹き替えてくれるのであれば、作品によっては、初見だとしても吹き替えでもいいかな・・・と考える、古いタイプの映画小僧なのでありました。


※ふきかえるから、連想して




※その替え歌




…………………………………………

明日のコラムは・・・

『初体験 リッジモント・ハイ(176)』
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする