「―公開前に映画を評論するってことは、試写会とかで映画を観るってことでしょう。ということは、その試写会に呼ばれなきゃいけないわけで、その時点で負けてる気がするな。なにかもっと、別の方法で新作を観ることの出来る状況を作らないと、悪口もいえないっていうね」
ビートたけし、『TVタックル 映画監督の逆襲』(テレビ朝日)にて。
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しょっちゅう「役得だよね!」と、映画ファンの友人から羨ましがられている。
たしかにそうで、この職業に就いていなければ、こんなにも沢山の劇場公開作に触れることが出来ないであろうし、皆より先に新作を観る機会というのもないし、「並ばずに」舞台挨拶つきの初日上映に入れることもない。
ただ、役得であるということを重々承知したうえでいうが、観たくないものだってあるわけで。
というか、真に観たいものは金を出して観るっていうね。
去年の例でいえば『野火』や『フォースの覚醒』がそう、今年か来年でいえばスコセッシの『沈黙』は、まちがいなく金を払って観る。
窓口に、入場料の3倍くらい置いてやろうかと「思っているくらい」期待している映画だから。
でも、好きなタイプの映画ばかり(タダで)観て、それについての原稿で金をもらうというサイクルでは、仕事とはいえない―であろうことは、よーーく分かっている。
観る前から、自分が嫌いであろうと予想出来るタイプの映画も、だから観る。
そりゃ仕事だもん。
※小藪ちゃんも、「やりたくないことをやるのが社会!」といっているしね笑
でも拷問に等しい。
こっちの予想を気持ちよく裏切り、「なめてました、ごめんなさい!」といいたくなる映画になんか、そうそう出会わないので。
去年の代表的な「それ=拷問」を挙げれば『ギャラクシー街道』で、最近の「それ=拷問」を挙げれば『高台家の人々』である。
両作に綾瀬はるかが出演しているが、単なる偶然だろう。
ただ女子としては好きだが、彼女は長澤まさみ以上に作品に恵まれないよなと。
で、友人に「金を出すのではなく、もらうようになって、映画の観かたは変わったか」と問われた。
「変わっていない」と即答。
変わったのは映画術を学び始めた18歳のころで、それ以降は変わっていないと思われる。
18歳以前と以後との境界線は、
映画をジャンル的視点で捉えなくなったことと、
映画を「ものがたり」ではなく「ひとがたり」と捉えるようになったこと。
「ものがたり」が破綻していても、「ひと」が描けていれば評価する―というスタンスは、高校生のころでは考えもしなかったことだものなぁ。。。
そうしてここに、矛盾がひとつあることに自分で気づく。
映画をジャンル的視点で捉えなくなったのであれば、ロマンチック・コメディやスウィートな恋愛映画を「苦手!」としているのは妙じゃないかと。
まぁそうなんだけど、そんな風に理詰めで攻撃しないでくださいよ。
「傷ひとつない、完璧な映画」より、傷がひとつやふたつあったほうが、生身の人間が創っている感じがして好感が持てる・・・のと同様に、ヒトだってキズモノのほうが愛らしいっていうじゃないか笑
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明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(169)』
ビートたけし、『TVタックル 映画監督の逆襲』(テレビ朝日)にて。
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しょっちゅう「役得だよね!」と、映画ファンの友人から羨ましがられている。
たしかにそうで、この職業に就いていなければ、こんなにも沢山の劇場公開作に触れることが出来ないであろうし、皆より先に新作を観る機会というのもないし、「並ばずに」舞台挨拶つきの初日上映に入れることもない。
ただ、役得であるということを重々承知したうえでいうが、観たくないものだってあるわけで。
というか、真に観たいものは金を出して観るっていうね。
去年の例でいえば『野火』や『フォースの覚醒』がそう、今年か来年でいえばスコセッシの『沈黙』は、まちがいなく金を払って観る。
窓口に、入場料の3倍くらい置いてやろうかと「思っているくらい」期待している映画だから。
でも、好きなタイプの映画ばかり(タダで)観て、それについての原稿で金をもらうというサイクルでは、仕事とはいえない―であろうことは、よーーく分かっている。
観る前から、自分が嫌いであろうと予想出来るタイプの映画も、だから観る。
そりゃ仕事だもん。
※小藪ちゃんも、「やりたくないことをやるのが社会!」といっているしね笑
でも拷問に等しい。
こっちの予想を気持ちよく裏切り、「なめてました、ごめんなさい!」といいたくなる映画になんか、そうそう出会わないので。
去年の代表的な「それ=拷問」を挙げれば『ギャラクシー街道』で、最近の「それ=拷問」を挙げれば『高台家の人々』である。
両作に綾瀬はるかが出演しているが、単なる偶然だろう。
ただ女子としては好きだが、彼女は長澤まさみ以上に作品に恵まれないよなと。
で、友人に「金を出すのではなく、もらうようになって、映画の観かたは変わったか」と問われた。
「変わっていない」と即答。
変わったのは映画術を学び始めた18歳のころで、それ以降は変わっていないと思われる。
18歳以前と以後との境界線は、
映画をジャンル的視点で捉えなくなったことと、
映画を「ものがたり」ではなく「ひとがたり」と捉えるようになったこと。
「ものがたり」が破綻していても、「ひと」が描けていれば評価する―というスタンスは、高校生のころでは考えもしなかったことだものなぁ。。。
そうしてここに、矛盾がひとつあることに自分で気づく。
映画をジャンル的視点で捉えなくなったのであれば、ロマンチック・コメディやスウィートな恋愛映画を「苦手!」としているのは妙じゃないかと。
まぁそうなんだけど、そんな風に理詰めで攻撃しないでくださいよ。
「傷ひとつない、完璧な映画」より、傷がひとつやふたつあったほうが、生身の人間が創っている感じがして好感が持てる・・・のと同様に、ヒトだってキズモノのほうが愛らしいっていうじゃないか笑
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明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(169)』