町山智浩「ウィリアム・フリードキン監督が死んだ。人格は最低だった。『エクソシスト』に本物の神父をキャスティングし、演技ができないからと、神父の頬を平手打ちし、ショックに震える彼を撮影したフリードキンは地獄に行くだろう。でも、映画のために悪魔に魂を売った彼にとってそれは望んだことだろう」
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マーティン・スコセッシはスコ爺、
大島渚はオオシマ、
森田芳光はモリタ、
ポール・トーマス・アンダーソンはPTA、
クエンティン・タランティーノはQT、
スティーブン・スピルバーグはスピちゃん、
そしてウィリアム・フリードキンは「ドキン」さん。
鬼才監督に愛称を冠することによって少しでも距離感を縮めようとする、自分独自―独自でないのも含まれるが―表記・呼称スタイル。
「ドキン」さんは、アメリカン・ニューシネマの時期に頭角を現した「怒れる牡牛系」映画監督。
ゲイの世界を真正面から描いた「初めての米映画」とされる『真夜中のパーティ』(70)のクールというか、冷徹なまでの視点。
『フレンチ・コネクション』(71)のリアリズム。
『エクソシスト』(73)のケレンと、それを補完する映像の説得力(とくに冒頭のイラクでのエピソード)。
クルーゾー監督の名作を「ドキン」さんなりの解釈で捉え直してみせた難産の『恐怖の報酬』(77)。
とくに70年代の活躍は目覚ましく、
80年代以降だって『L.A.大捜査線/狼たちの街』(85)や『英雄の条件』(2000)などで気を吐くも、マイケル・チミノがそうであったように「異様だったあのころ」に才能を使い果たした感もあって、ずっと好調がつづくスピちゃんやスコ爺と比べると不憫に思わなくもない、、、というか。
群れるのを嫌うひとだったようだ。
スコ爺あたりもそんな印象があるが、いやいやデ・パルマやスピちゃんと仲が良かったし。
このグループに「ドキン」さんが入っていなかったことのほうが意外なのよ。
けれども冒頭で引用した町山評のとおり、映画のためならキャストやクルーたちを地獄に落とす悪魔的な面があり、関係者に畏れられて?いたのかもしれない。
創る映画の冗談の通じなさ―『エクソシスト』がほんとうに怖かったのも、そのためでしょう―がそれに輪をかけたところがあったかもしれない。
じつは黒澤信者のひとりであって、自宅で晩餐会を開いたこともある社交性のあるひとだったのに、そのイメージが広まれば思うように映画を撮れなくなった90年代以降も手を差し伸べてくれるひとが居たかもしれないのに・・・。
ただ随分と勝手な言い分であることを自覚していえば、
そんな孤高性が「ドキン」さんを特別にしているところもあって。
ちょっと。どころか「かなり」頭のおかしなひとが撮った映画なんだな、
映画監督としては正しく狂っているひとが撮ったのが『フレンチ・コネクション』なんだな。
そんな風に捉えたほうが、映画をより楽しめる・深く理解することが出来る、、、こともあるかもしれない。
「ドキン」さんへの評価は、それでいいのではないかな―そんな気もするのであった。
映画監督ウィリアム・フリードキン、8月7日死去。享年87歳、合掌。
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明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(469)』
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マーティン・スコセッシはスコ爺、
大島渚はオオシマ、
森田芳光はモリタ、
ポール・トーマス・アンダーソンはPTA、
クエンティン・タランティーノはQT、
スティーブン・スピルバーグはスピちゃん、
そしてウィリアム・フリードキンは「ドキン」さん。
鬼才監督に愛称を冠することによって少しでも距離感を縮めようとする、自分独自―独自でないのも含まれるが―表記・呼称スタイル。
「ドキン」さんは、アメリカン・ニューシネマの時期に頭角を現した「怒れる牡牛系」映画監督。
ゲイの世界を真正面から描いた「初めての米映画」とされる『真夜中のパーティ』(70)のクールというか、冷徹なまでの視点。
『フレンチ・コネクション』(71)のリアリズム。
『エクソシスト』(73)のケレンと、それを補完する映像の説得力(とくに冒頭のイラクでのエピソード)。
クルーゾー監督の名作を「ドキン」さんなりの解釈で捉え直してみせた難産の『恐怖の報酬』(77)。
とくに70年代の活躍は目覚ましく、
80年代以降だって『L.A.大捜査線/狼たちの街』(85)や『英雄の条件』(2000)などで気を吐くも、マイケル・チミノがそうであったように「異様だったあのころ」に才能を使い果たした感もあって、ずっと好調がつづくスピちゃんやスコ爺と比べると不憫に思わなくもない、、、というか。
群れるのを嫌うひとだったようだ。
スコ爺あたりもそんな印象があるが、いやいやデ・パルマやスピちゃんと仲が良かったし。
このグループに「ドキン」さんが入っていなかったことのほうが意外なのよ。
けれども冒頭で引用した町山評のとおり、映画のためならキャストやクルーたちを地獄に落とす悪魔的な面があり、関係者に畏れられて?いたのかもしれない。
創る映画の冗談の通じなさ―『エクソシスト』がほんとうに怖かったのも、そのためでしょう―がそれに輪をかけたところがあったかもしれない。
じつは黒澤信者のひとりであって、自宅で晩餐会を開いたこともある社交性のあるひとだったのに、そのイメージが広まれば思うように映画を撮れなくなった90年代以降も手を差し伸べてくれるひとが居たかもしれないのに・・・。
ただ随分と勝手な言い分であることを自覚していえば、
そんな孤高性が「ドキン」さんを特別にしているところもあって。
ちょっと。どころか「かなり」頭のおかしなひとが撮った映画なんだな、
映画監督としては正しく狂っているひとが撮ったのが『フレンチ・コネクション』なんだな。
そんな風に捉えたほうが、映画をより楽しめる・深く理解することが出来る、、、こともあるかもしれない。
「ドキン」さんへの評価は、それでいいのではないかな―そんな気もするのであった。
映画監督ウィリアム・フリードキン、8月7日死去。享年87歳、合掌。
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明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(469)』