※「ネタバレ、おおいにあり。」です。
「モリー、享年50歳。殺人への言及はなし。」
ウィリアム「キング」ヘイル(ロバート・デ・ニーロ)を裁判で指差すアーネスト・バークハート(レオナルド・ディカプリオ)の場面に触れたとき、『グッドフェローズ』(90)のエピローグ直前を思い出す映画ファンは多いだろう、
愛情も友情も信頼もありゃしない、バカげた人生だ、俺にはなにもない、すべてを失った―結局スコセッシは、いつの時代の、どんな物語を紡ごうがいつも同じ。
むしろ捉えかたによってはカタルシスの得られる『タクシードライバー』(76)が異質なのであって、「ああ無情」こそスコセッシの映画史を貫く世界観だったりする。
堂々の206分、体感的には長いと感じさせず、
原作『花殺し月の殺人 インディアン連続怪死事件とFBIの誕生』を思えば、あと30分くらい長くてもよかったか。
副題のとおりの物語だが、1920年代のオクラホマを舞台に、戦争帰りのアーネストが「キング」を頼ってこの地にやってきて、先住民オーセージ族のモーリーと結婚したことから起こる奇々怪々を描いていく。
裏米国史といった趣だが、先に原作を読んでいたものだから、てっきり「FBIの誕生」を主軸に持っていくものだと思っていた。
だがスコセッシの興味は西部劇の再構築にあり、エドガー・フーヴァーの名もいちどきりしか出てこない。
なるほどそういうことか、
スコセッシ本人が登場し、現実に引き戻すような演劇/ラジオ収録的エンディングを用意したのはそのためだったか、、、と合点がいった。
レオが扮するアーネストは呆れるほどに馬鹿野郎だ。
野心に溢れ自信に満ち満ちている。頭も悪いようには見えないのに、狡猾なキングの思うとおりに動き、愛しているはずのモリーの家族を根絶やしにしていく。

キングの目的はシンプル、金に尽きる。
興奮するアーネストに「落ち着け、興奮していると馬鹿みたいに見える」と叱るが、その権謀術数を支えるのは存在感と「ことばの強さ」くらいなものであって、完全犯罪とはいえぬ雑さが目立つ。
自殺に見えるよう「前から撃て」と指示したのに後ろから撃つ。
ダイナマイトの量が多過ぎて狙った家以外まで吹き飛ばす。
1世紀前だから足がつくのが遅かっただけで、現代であれば最初の犯行で檻の中だったのかもしれない。

未成年者を雇ったことから逮捕されるラモッタ。(=80年の『レイジング・ブル』)
愛を失っただけでなく、ホームさえ思うように動かせなくなったロススティーン。(=95年の『カジノ』)
敬愛していたはずの恩師ホッファを自ら殺すことになるシーラン。(=2019年の『アイリッシュマン』)
自分の人生、なんだったんだろう。
トラビスはその煩悶を経過し乗り越えたのかもしれないし、もしかしたら「あのあと」に、そこに辿り着き「ああ無情」と思うのかもしれない。
『グッドフェローズ』のヘンリーはどうだろう、
彼の場合は馬鹿が過ぎてそのことに気づかなかったか、いやでもトミーの奇行に触れ、呆れ、もうついていけないという顔をしていたころもあったじゃないか。
なんで、こんなことを。きょうは、こんなによい日なのに…。
『ファーゴ』(96)の署長マージのことばは、凶悪犯グリムスラッドには響かない。
好んで犯罪を描く現代の映画作家が辿り着く境地といえばいいのか、とくにコーエン兄弟などはそこに市井の民の視点を入れて物語をしめくくる。
観客のこころに届く最良の手法だろう、
スコセッシやイーストウッドはもう少し手厳しくて、観客を突き放す傾向にある。
良いか悪いかではもちろんなく、ただそのほうが「ああ無情」感は強調されていくのだろうし、ふたりはそのことに確信を持っている。
最後に。
『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』は、音楽家ロビー・ロバートソンに捧げられている。
音楽面からスコセッシを支えた才人。
スコセッシは「耳がよい」といわれているし、実際にそう思うが、相棒の助力があったからこそだろう。
『カジノ』の『朝日のあたる家』あたりは、想像でしかないが、ロバートソンが「これ、よくない?」みたいに薦めたにちがいない、、、なんて。
『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002)のエンディングでようやく流れるタイトルクレジットのデザインは、好んで起用したソール・バスを追悼したものに見えた。
関係者が次々と鬼籍に入っていくなかで、80歳の巨匠がその精神を自身の映画史にきっちり焼き付けて前へ進もうとしている。
信者としては、もうついていくほかはないのです。。。

…………………………………………
明日のコラムは・・・
『まだ未定、軽いヤツいきます(^^;)』
「モリー、享年50歳。殺人への言及はなし。」
ウィリアム「キング」ヘイル(ロバート・デ・ニーロ)を裁判で指差すアーネスト・バークハート(レオナルド・ディカプリオ)の場面に触れたとき、『グッドフェローズ』(90)のエピローグ直前を思い出す映画ファンは多いだろう、
愛情も友情も信頼もありゃしない、バカげた人生だ、俺にはなにもない、すべてを失った―結局スコセッシは、いつの時代の、どんな物語を紡ごうがいつも同じ。
むしろ捉えかたによってはカタルシスの得られる『タクシードライバー』(76)が異質なのであって、「ああ無情」こそスコセッシの映画史を貫く世界観だったりする。
堂々の206分、体感的には長いと感じさせず、
原作『花殺し月の殺人 インディアン連続怪死事件とFBIの誕生』を思えば、あと30分くらい長くてもよかったか。
副題のとおりの物語だが、1920年代のオクラホマを舞台に、戦争帰りのアーネストが「キング」を頼ってこの地にやってきて、先住民オーセージ族のモーリーと結婚したことから起こる奇々怪々を描いていく。
裏米国史といった趣だが、先に原作を読んでいたものだから、てっきり「FBIの誕生」を主軸に持っていくものだと思っていた。
だがスコセッシの興味は西部劇の再構築にあり、エドガー・フーヴァーの名もいちどきりしか出てこない。
なるほどそういうことか、
スコセッシ本人が登場し、現実に引き戻すような演劇/ラジオ収録的エンディングを用意したのはそのためだったか、、、と合点がいった。
レオが扮するアーネストは呆れるほどに馬鹿野郎だ。
野心に溢れ自信に満ち満ちている。頭も悪いようには見えないのに、狡猾なキングの思うとおりに動き、愛しているはずのモリーの家族を根絶やしにしていく。

キングの目的はシンプル、金に尽きる。
興奮するアーネストに「落ち着け、興奮していると馬鹿みたいに見える」と叱るが、その権謀術数を支えるのは存在感と「ことばの強さ」くらいなものであって、完全犯罪とはいえぬ雑さが目立つ。
自殺に見えるよう「前から撃て」と指示したのに後ろから撃つ。
ダイナマイトの量が多過ぎて狙った家以外まで吹き飛ばす。
1世紀前だから足がつくのが遅かっただけで、現代であれば最初の犯行で檻の中だったのかもしれない。

未成年者を雇ったことから逮捕されるラモッタ。(=80年の『レイジング・ブル』)
愛を失っただけでなく、ホームさえ思うように動かせなくなったロススティーン。(=95年の『カジノ』)
敬愛していたはずの恩師ホッファを自ら殺すことになるシーラン。(=2019年の『アイリッシュマン』)
自分の人生、なんだったんだろう。
トラビスはその煩悶を経過し乗り越えたのかもしれないし、もしかしたら「あのあと」に、そこに辿り着き「ああ無情」と思うのかもしれない。
『グッドフェローズ』のヘンリーはどうだろう、
彼の場合は馬鹿が過ぎてそのことに気づかなかったか、いやでもトミーの奇行に触れ、呆れ、もうついていけないという顔をしていたころもあったじゃないか。
なんで、こんなことを。きょうは、こんなによい日なのに…。
『ファーゴ』(96)の署長マージのことばは、凶悪犯グリムスラッドには響かない。
好んで犯罪を描く現代の映画作家が辿り着く境地といえばいいのか、とくにコーエン兄弟などはそこに市井の民の視点を入れて物語をしめくくる。
観客のこころに届く最良の手法だろう、
スコセッシやイーストウッドはもう少し手厳しくて、観客を突き放す傾向にある。
良いか悪いかではもちろんなく、ただそのほうが「ああ無情」感は強調されていくのだろうし、ふたりはそのことに確信を持っている。
最後に。
『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』は、音楽家ロビー・ロバートソンに捧げられている。
音楽面からスコセッシを支えた才人。
スコセッシは「耳がよい」といわれているし、実際にそう思うが、相棒の助力があったからこそだろう。
『カジノ』の『朝日のあたる家』あたりは、想像でしかないが、ロバートソンが「これ、よくない?」みたいに薦めたにちがいない、、、なんて。
『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002)のエンディングでようやく流れるタイトルクレジットのデザインは、好んで起用したソール・バスを追悼したものに見えた。
関係者が次々と鬼籍に入っていくなかで、80歳の巨匠がその精神を自身の映画史にきっちり焼き付けて前へ進もうとしている。
信者としては、もうついていくほかはないのです。。。

…………………………………………
明日のコラムは・・・
『まだ未定、軽いヤツいきます(^^;)』