暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

昭和美術館 (1)

2010年05月18日 | 美術館・博物館
伊勢神宮献茶式へ行った折、以前から行ってみたかった
名古屋市昭和区にある昭和美術館を訪れました。

昭和美術館へ行きたい訳が二つありました。
宗旦作の茶杓「弱法師(よろぼし)」を収蔵していることと、
「捻駕籠(ねじかご)」の茶席にとても関心があったのです。

ちょうど館蔵「茶道具優品展」=茶道文化との融合=
が開催中でした(7月25日まで)。
名古屋駅から金山駅へ、「上山町」までバスに乗り、道を尋ねながら、
閑静な住宅地の一画にある昭和美術館へ辿りつきました。
展示室へ行くと先客が一人いましたが、
すぐに同行のKさんと二人だけの貸切りとなりました。

ゆっくり一品一品、感想や茶道具の背景、取り合わせなどを
愉しく話しながら鑑賞した展示品はまさに優品ぞろいでした。
どの品もその茶道具を手にとり、茶会に使ったであろう茶人の
息遣いと愛情が伝わってくるようでした。

中でも「呉洲赤絵四方入香合」は一番のお気に入りです。
小振りで愛らしい香合は茶会で使ってみたい・・と、すぐに思いました。
お隣りに展示されていた「青磁犬鷹香合」と同じ、
明~清時代(17世紀)のものでしょうか?

中峰明本(ちゅうほうみょうほん)の「墨蹟」は
筆の運びがしなやかで力強く、内容は読み取れませんが
「いつまでも見ていたい」そんな魅力を感じる書でした。

中峰明本(1263-1323)は中国元時代の臨済宗の高僧です。、
出世を固辞し、天目山に庵を結んで隠遁したそうです。
中峰の書風は笹の葉を連想させるところから
「笹葉中峰(ささのはちゅうほう)」と呼ばれています。

「周茂叔」の愛蓮図が今でも印象に残っています。
周茂叔(しゅうもしゅく、1017-1073)は中国北宋時代の儒学者で、
高尚風雅な人として蓮を愛したという故事が知られています。

目をこらして見ると、朝もやのかかる池に舟を浮かべ、
蓮の花と戯れている周茂叔が現れてきました。
淡彩の絵はおだやかで、自然と人が一体となって溶け込んでいて
この世とあの世との境のない絵の世界です。
作者は狩野探幽(1602-1674)、65歳の作品です。

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伊勢神宮 献茶式

2010年05月15日 | 茶道楽
5月10日に伊勢神宮で行われた坐忘斎お家元の献茶式へ
初めて参席しました。

前日早くにKさんと伊勢市駅へ着き、外宮へお参りし、
それからバスで内宮へ向いました。
五十鈴川に架かる宇治橋はヒノキの香りが満ち溢れています。
橋を渡ると伊勢神宮の聖域です。

深い森の「気」を感じて思わず深呼吸し、
五十鈴川御手洗場(みたらし)で手を清め、俗塵を洗い流しました。
御正宮のお参りを済ませてから献茶式が行われる神楽殿を確かめ、
夕食会場の松阪「和田金」へ・・・(さすが松阪牛、美味でございました!)。

             

献茶式当日、二十回以上参席している先生のご指示に従い、
朝八時から式場の神楽殿前に並び、整理券をもらいました。
番号は007です。
献茶式が始まる前に参集殿の茶席へ入りました。
待合の掛物は「蝦夷鶴ノ舞」、
本席は坐亡斎お家元筆で「花鳥風月宿」。
菓子銘は牡丹の別名「深見草」です。

先生が正客をつとめられ、四客で薄茶を頂きました。
小振りの茶碗にたっぷり点てられた薄茶は何よりのご馳走です。
茶碗は絵高麗で、色、絵、土、形、高台が味わい深く、
「絵高麗ですが中国のもので、見立てらしいです・・」
と席主から説明がありました。
お隣から「是非、お茶碗の拝見を」
と声が掛かりました。山形からいらした方でした。

           

朝早くから並んだ甲斐があって、最前列の席で
献茶式に参列する事が出来ました。
桐台子の天板に茶碗がのせられた台が左右に二つ、
中央の盆には白い仕覆に入った茶入が二つ荘られています。

献茶式は、神官が祝詞を奉じたあとに真の炭手前で始まりました。
先ず濃茶、次に薄茶が点てられ、
神官が取り次いで神前に運ばれました。
同行のKさんは、お家元の釜カンを扱う手の動きに感激したそうですが、
羽箒の扱いと掃き方、厳かな中にもリズムを感じる所作が印象に残りました。

献茶のあとに御神楽(みかぐら)が奉納され、
四人の巫女が榊を持ち、赤い袴の裾捌きも見事に舞いました。
雅楽の調べにのって、ゆったりとしたシンプルな舞です。

次いで頭冠束帯姿の若き舞官が一人舞いました。
今まで見たことのない足の動きや振り付けに驚き、
2メートル近い裾をひるがえして大らかに踊る姿は
優雅な中にも迫力を感じました。

お家元の献茶、雅楽の調べ、神楽の舞い・・・
日常の佇まいとはかけ離れた世界に浸ることが出来て
とても良い時間を過ごす事ができました。
Kさんと神楽殿を名残惜しく振り返りながら
「伊勢神宮の献茶式には着物より十二単が似合うわね」

平安時代にタイムスリップしたような厳粛かつ典雅な献茶式で、
今まで参席した中で一番心に残る献茶式となりました。

                          

松浦家お留め菓子

2010年05月13日 | 2010年の旅
平戸の名菓「カスドース」を買いに行った折
菓子老舗「蔦屋」で、閑雲亭で頂いた「鳥羽玉(うばたま)」
と再会しました。

胡麻餡を求肥で包み、和三盆をまぶしたこの菓子は、
「百菓之図元本」に記載されている
松浦家お留め菓子であったことを知りました。
蔦屋の「鳥羽玉」説明書きを紹介します。

 平戸藩主・松浦家お留め菓子
   平戸藩主松浦家第三十五代ひろむは
   百種類の菓子作りを平戸城下の
   名店蔦屋と境屋に命じ
   天保12年(1842)より六年の歳月を重ね
   ようやく百菓が完成しました
   この百菓を極彩色で描き
   菓名と製法を記した「百菓之図元本」より
   再現したものがこの鳥羽玉です

          

鎮信流の茶処なので、他にも美味しく珍しい菓子がありました。

「カスドース」はポルトガルとの交流によって伝わった南蛮菓子です。
卵と砂糖は当時大変貴重で、藩主のお留め菓子として伝わりました。
製法は、一口大に切り分けたカステラを溶いた卵黄にくぐらせ、
熱した糖蜜に浮かべ、最後に砂糖をまぶします。
糖衣の食感と上品な甘味のカステラのハーモニーは
今まで食べたことのない味わいです。

           

「牛蒡餅(ごぼうもち)」は中国からの伝来と伝えられ、
古くから慶弔時の菓子、また茶菓子として用いられています。
賞味するとゴボウの味がしないのが不思議でした。
ゴボウは入っておらず、その姿がゴボウに似ていることから、
この名がついたそうです。

「カスドース」と「鳥羽玉」がとても気に入り、お薦めです。

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   写真は、「お留め菓子 鳥羽玉」
         「蔦屋に残る菓子の木型」
         「カスドース」です。

鎮信流と茶室「閑雲亭」

2010年05月11日 | 2010年の旅
平戸といえば、鎮信流発祥の地です。

鎮信流は二十九代藩主・松浦鎮信(1622-1703)が興した
武家茶道の一流です
鎮信は、島原の乱後、激動する平戸藩内政に力を注ぐ一方で
風流を好み、織田有楽、金森宗和らの茶を研究し、
後年、片桐石州の門に入り、石州流を学びました。
石州没後はその家臣藤林宗源より皆伝を受けた後、
石州流に他流の好いところを取り入れて自ら鎮信流を興しました。

「ジャガタラ文」が展示されていた松浦史料博物館は
旧藩主松浦氏の元邸宅で、明治26年に三十七代松浦詮(茶号心月)が
建てた草庵茶室「閑雲亭」がありました。

              

「閑雲亭」は四畳向切り、半畳の踏込み枡床があります。
点前座上の蚕棚のような天井(ヨシズ張り)が目を惹きましたが、
他には天井がありません。
点前座の腰張は平戸の名家に伝わる消息文だそうです。

ユニークな形の屋根は萱葺で、竹材が多く用いられています。
柱は自然の丸材を組み、釘を使わず藁縄で固定されていて、
自然体で簡素な草庵の雰囲気を創り上げていました。
現在の茶室は、台風で倒壊した後昭和63年に再建されたものです。

            

風雅で素朴な茶室「閑雲亭」に座して抹茶を頂きました。
お運びの女性は鎮心流らしく、お辞儀の時に手を膝横に立てる
武家茶の所作を久し振りに拝見しました。
茶室は鎮信流の稽古場としても使用されているそうです。

抹茶はふっくら泡だっていて裏千家流に近いと思いました。
菓子銘は「鳥羽玉(うばたま)」
抹茶と胡麻餡の「鳥羽玉」が美味しかったこと!

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平戸 「コルネリヤの塔」

2010年05月09日 | 2010年の旅
平戸で見所の一つは、カトリック平戸教会(平戸ザビエル記念聖堂)と
そこからの平戸湾、平戸城の眺望です。

教会の横には十字架ならぬ古びた墓石が並ぶ広い墓所があり、
そこは平戸藩重臣の熊澤家墓所で、不思議な空間でした。
教会と寺院が重なり合うように並ぶ坂道は
西洋と東洋が混在する平戸ならではの魅力的な景観です。

坂を下りていくと瑞雲寺の門脇に「コルネリヤ供養塔」と
刻まれた石碑を見つけました。
境内にある層塔は、追放された混血児の一人コルネリヤが
オランダ商館長であった父の菩提を弔いたいという願いにより、
1682年(天和2年)に判田家が本成寺に建てた供養塔です。
今は瑞雲寺に移され保存されています。

               

コショロのジャガタラ文を前回(5月7日付)紹介しましたが、
遠い異国の地で彼女たちはどんな人生を送ったのでしょうか?

二通のジャガタラ文と「コルネリヤの塔」が平戸に残されている
コルネリアは、オランダ商館第五代館長ナイエンローデを父に
スリシヤ(洗礼名)を母に1629年(寛永6年)に生まれました。

ナイエンローデは十年間平戸に勤務し、1633年(寛永10年)に亡くなりました。
初めにトケシヨ(洗礼名)という日本婦人と結婚して一女エステルを儲け、
後にスリシヤと結婚してコルネリヤが生まれたのです。
母スリシヤはナイエンローデ死後に判田五右衛門に嫁ぎ、
コルネリヤはオランダ商館に引き取られて育ったそうです。

1639年(寛永16年)、10歳のコルネリヤは異母姉エステルとともに
バタビア(現ジャカルタ)へ追放されましたが、母は日本に残りました。
父の遺産で、コルネリヤはバタビアの孤児院でなに不自由なく育ち、
20歳頃に東インド会社の社員ピーテル・クノルと結婚しました。
十一人の子供に恵まれ、裕福に暮らしていたそうです。

しかし、平戸に残った母への想いは忘れがたく、
子を抱いた自分の木像を母の嫁ぎ先の判田家へ送ったといいます。
ジャガタラ文の一通は、夫クノル(文にはコノル)との連名で書かれていて、
判田五右衛門夫妻や乳母へ、樟脳や更紗などの布を贈っています。

            

夫クノルの死後、コルネリヤは東インド会社社員ビターと再婚しますが、
財産を浪費され、子供たちにも次々と先立たれ、
1692年に63歳で亡くなりました。

幸せだったクノル一家を描いた一枚の絵が残されていました。
黒いドレスの美しい婦人がコルネリヤです。

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   写真は、「教会と寺が並ぶ坂道」「コルネリアの塔」
         「クノル一家の絵」